2009年10月31日土曜日

今日はガス展でロードク

 かねてから告知させていただいているように、今日は東京ガス展のイベントに現代朗読協会が協力出演します。
 ライフバル渋谷・富ヶ谷店の特設会場に、今日から4日間、ずっとデバってます。
 最寄り駅は小田急線の代々木八幡か、千代田線の代々木公園です。駅から徒歩2分。

 会場からもまたレポートしたいと思ってますが、今日は11時から協会正会員によるミニライブ、13時からミニ体験ワークショップ、そして15時からまたミニライブをやります。いずれも無料ですので気軽においでください。
 会期中、4日間とも、このようなスケジュールでやります。

 さて、もう少ししたら出かけて、準備をします。

失われし街

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2009年10月30日金曜日

農夫

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2009年10月29日木曜日

興行とはなにか、あるいは自分を商品化することについて

 人を集めて、お金を徴収して、なにかお見せするイベントのことを総称して「興行」という。イベントは相撲や野球、スケートなどのスポーツをはじめ、サーカス、音楽演奏、映画や演劇の上演(もちろん朗読公演も)など、さまざまな種類がある。
 いうまでもなく「商行為」「経済活動」の一種である。
 美術展や巡回動物園などのような「動かないもの」「ただ展示するだけのもの」は「興行」とはいわないような気がする。
 規模もさまざまだ。一度に何万人も集めるようなものもあれば、数人しか対象にしないようなものもある。が、商行為なので、数人から数十人程度のイベントは「興行」とはいわないような気もする。ライブ、などという。ライブハウスで日常的におこなわれている音楽ライブなども、わざわざ「興行」とはいわない。
 興行には必ず「興行主」がいる。この人(あるいは団体)がすべてを取り仕切る。つまりはお金の管理をするわけだ。見物客からお金を徴収するためのできるだけ大きな「囲い」を作り、入口で料金や、すでに料金を払った証拠となるもの(チケットなど)を徴収する。スタジアムであったり、コンサートホールであったり、あるいは臨時に設置したテントだったり。
 規模が大きくなると、かならず「囲い」を設置する場所の問題が持ちあがってくる。そのために、興行主はそのあたりの土地の有力者に顔が効くものでなければならない。もしツテがなければ、知り合いの顔役に頼んで(つまり金を払って)、囲いの設置にあたってトラブルがないように取りはからってもらう。顔役とのつなぎ役は政治家だったりすることもある(裏金が献金されたりする)。
 日本国中、どんな土地でも、所有者とは別に「そのあたりの顔役」という別枠がかぶせられている。裏社会といいかえてもいい。どの街のどんな場所でもいい、適当なところで路上ライブをするとか、自作の詩を売るとか、なんでもいいがなにか店を広げてみるとわかる。警察よりも先にどこからともなくチンピラが現れて、「ショバ代」なるものを請求される。
 大きな興行というものは、表向きどれほどクリーンな顔をよそおっていても、深部ではそのような裏社会とつながっている。たとえ外タレであろうと、アイドルタレントであろうと、だ。マラソンやオリンピックだってそうだ。
 ここで重要なことは、興行の主役は、イベントの主役である演奏家やダンサーや役者や選手ではないということだ。主役はもちろん興行主なのである。なぜなら、興行は商行為であり、なるべく巨額の利益をあげることが目的なのだから。パフォーマーは商行為のたんなる「駒」でしかすぎない。人気がなくなったらさっさと捨てられるだけだし、替えはいくらでもいる。

 私がライブハウスでピアノの演奏会をやるとする。
 私はひとりでライブハウスのオーナーと交渉し、日時を決め、ミュージックチャージを決め、ペイバックの料率を決める。必要なら自分でチラシを作って、自分で宣伝して、お客を集める。数人から数十人のお客が来てくれるだろう。
 お客はミュージックチャージを店に支払い、その何割かを私が受け取る。数千円から数万円程度の額だろう。その清算が終わったら、イベントは終わる。とてもシンプルだ。
 私がメジャーなアーティストだとする。私の名前ひとつで数千人規模のコンサートを開けるピアニストだとする。となると、話はにわかに経済になってくる。
 あらゆる手段を使って、一番ふさわしい日にちで一番いいコンサートホールを押さえる。巨額の広告費を投じて、テレビ、ラジオ、新聞、吊り広告、折り込み、インターネットなど、さまざまな広告を打つ。番組や雑誌とタイアップする。
 また興行主は、金のネタである私に最高のパフォーマンスをさせるために、さまざまなことをする。移動手段はもちろん、新幹線ならグリーン車、飛行機ならビジネスクラス。あるいは貸し切りのバスを使うかもしれない。ホテルはもちろんスイート。食事はレストランを借り切って、一般人に邪魔されないように手配しておく。
 会場でも控え室は注意深く選び、備品などもチェックしておく。ホールのピアノは専任の調律師が付き、リハーサルのためと、本番の直前、公演が数回ある場合はその合間にすべて調律される。
 事前に広告のための撮影や取材を受けるときにも、きまぎまな気遣いがおこなわれる。そのために何十人という人間が動く。なにしろ、私ひとりの名前でそれらの人々がおまんまを食っているのだ。
 そう、私は商品なのだ。

 恐ろしいのは、一度そのような最高の待遇を受けると、それを忘れられなくなるということだ。自分を一度商品化してしまうと、もちろん商品は経済行動において大切に扱われるものであるから、自分の価値が認められたような気がしてとても満足な気分になる。なので、その後商業価値がなくなってもうそのような待遇を受けられなくなったとき、とてもみじめな気分になるのだ。自殺したり薬物に走りたくなる。
 ひとりでライブのブッキングをする? 普通車で移動? ビジネスホテル? しだし弁当? とんでもない!
 しかし、どちらの状況のほうが自分を大切にしているといえるのか。
 自分が自分であるために、自分自身が自分のことをする。自分はお金のためにだれからも利用されないし、ましてや金を生むだけの商品ではない。自分は生きていまだ学びつづけている人間なのであって、その学びを自分と人の幸福のために役に立てたいと考えているのだ。
 表現者でありたいと望むなら、けっして自分を商品化してはならないし、ましてや興行などに加担してはならない。

Solar

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2009年10月28日水曜日

語りっ娘ニュース No.76

 語りっ娘・小林沙也佳ちゃんの活動報告である「語りっ娘ニュース」の最新号が届いたので、紹介します。
 画像をクリックすれば大きく表示されます。

彼は眠らない

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2009年10月27日火曜日

モレスキン手帳の写真/私の生産ライン

 iPhoneなどの電子ガジェットは好きだし、テキスト執筆はコンピューターを使っているが、紙の手帳も手放したことはない。
 かつてはシステム手帳を使いこんでいた。とくに最後のシステム手帳となったフランクリン手帳は、10年近い分量のデイリーリフィルがボックスに収納されて保存されている。
 それなりに使いこみ、満足もしていたのだが、いかんせん、重い。でかい。手帳一冊がひとつのカバンくらいにかさばるのはどうか。
 ということで、ここ何年かはモレスキンのコンパクトなサイズのものを使っている。

 写真はモレスキンのプレーンノートとウイークリーノートを2冊、手作りのブックカバーにいっしょに綴じこんである図だ。
 ウイークリーはスケジュールと日々の出来事の記録、そして重大ニュースなどをちょこちょこと書きとめておく。これがあとでけっこう役に立つことがある。
 プレーンノートはメモ帳、スケッチ帳、それからチケットとか新聞の切り抜きとかなんでも貼りこんで使う。ページが進むにつれ、どんどん分厚くなっていくのが楽しかったりする。
 ブックカバーは、古い着物をばらして、パッチワークのように貼り合わせたもので、かなり手がこんでいる。とても気にいっている。ちょっとしたアートみたいだ。古い布地なので、手帳のように日常的に持ちあるいて使っているとすりきれてしまうのではないかと、ちょっと心配。大事に使っている。

 手帳、iPhone、コンピューター。
 この3段階が私の生産ラインだ。

いま読んでいる本:まっしぐらの花

 ゆきちゃん、読んでるかい?

 中川幸夫というあまり知られていない前衛芸術家(いけ花)の仕事に、最初に衝撃を受けたのは、テレビで紹介された「天空散華」というイベントを見たときだった。舞踏家の大野一雄とのイベントで、新潟県でおこなわれた。
 地元の協力を得て100万枚のチューリップの花びらを集め、それをヘリコプターで空中から散布する。その花びらの舞うなか、車椅子に乗った大野一雄が舞う、というパフォーマンスだった。
 以来、気になって作品を見たり、書いたものを読んだりしていたのだが、この本が中川幸夫の全体像を知るのに一番いい。
 カルティエ現代美術館の館長エルベ・シャンデスは、
「中川幸夫は過去40年間の日本のアーティストのなかで最も重要な人物のひとりである。いけ花の伝統の中から始まった彼の作品は、世界の現代アートの前衛といえる」
 といいきっている。
 私もそう思う。

『まっしぐらの花』森山明子/中川幸夫/美術出版社

Nearness of You

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2009年10月26日月曜日

頭を空っぽにしておくことで起こるよいこと

 朗読でも音楽演奏でも、時間と空間をだれかと共有しておこなう表現行為においては、頭を空っぽにしておくこと。身体のなかも空っぽにしておくこと。なにもたくらまないこと。
 たくらみは大脳の、しかも「意識」という悪しき部分のする仕事。後天的意識は表現行為においてよくないことばかりする。なので、意識を捨てて、無意識に仕事をさせる。
 意識を捨てて頭をからっぽにして、身体のなかも風通しをよくして、外界からの膨大な非言語情報を受け入れ、身体の中を通りぬけさせる。そうすれば、無意識がいい仕事をしてくれる。本来の自分自身の反応と表現が生まれ、それはまったく作られていないものとして、ありのままの形で相手に伝わっていく。
 たくらみがない表現は、人と人のあいだに共振/共感を生まれさせる。それはミラーニューロンのなせる業のひとつでもある。人はそういう生き物なのである。

 とはいうものの、これが一番難しい。たくらむよりも、入念に準備するよりも、繰り返し練習するよりも、なによりもこれが難しい。
 その方法を教えるのはもっと難しい。

声優/ナレーター、大失業時代

(以下の記事はあくまで私見であり、私が自分自身の考えをまとめるために書いたメモのようなものです。暖かな目で読んでいただければ幸いです)

 日テレの「所さんの目がテン」という番組を作っている制作会社から連絡があって、読み聞かせができる人をひとり派遣してもらいたいという。一ヶ月くらい前のことだが。収録場所が遠かったり、日程が二転三転したりしたこともあって、融通がつく野々宮卯妙に行ってもらった。
 その番組の放送が、先週の土曜日の夕方にあった(地方によっては日曜日の朝だったようだ)。私も録画しておいたので、見てみた。
 まあ、うまくまとまっていたと思う。そもそも私は子どもがまだ小さかったころ、この番組がけっこう好きだった。思えば長寿番組だ。

 番組は読書特集で、まず黙読に焦点をあてて本を読むのとケータイで小説を読むのとの比較をやっていた。
 そのあとに今度は、速読と普通に読むことの比較。
 そして、黙読と読み聞かせの違い。子どもたちに本を黙読してもらうのと、読み聞かせで聞いてもらうのとの違いを比較していた。その読み聞かせを、野々宮がやっていたのだ。

 興味深かったのは、番組の最後にやっていた機械音声での読み聞かせだった。その良否はここでは問わない。
 以下は現場で読み上げソフトを実際に見てきた野々宮の補足も踏まえての考察である。また、私も毎年、国際ブックフェアに足を運んでおり、そこのブースで年々進化をとげていく機械音声読み上げを観察しつづけてきている。
 番組内でも少し聞けたのだが、最近の音声読み上げソフトは、人間のナレーションとなんら遜色のない出来のところまで近づいてきている。電話の自動案内、駅の案内アナウンス、自動販売機のガイド、防災のアナウンスなどなど、私たちが気づいていないところでも機械音声がどんどん使われてきている。最新のソフトでは、イントネーションの微妙な調整をすることで、専門家でなければ人間が読んでいるのか機械が読んでいるのかほとんど区別ができないくらいのところまで来ているという。
 機械音声のいいところは、テキストさえあれば、それをどんな声でも読ませることができるということだろう。色っぽい女優の声だろうが、清純な新人アナウンサーの声だろうが、渋いおじさまナレーターの声だろうが、萌え萌えのアイドルっぽい声だろうが、サンプルさえ用意しておけば好きな声で読ませることができる。また、読み違えることもないし、高いギャラも不要だ。控え室もお茶や食事も、加湿器も必要ない。
 間違いなく、いずれ近いうちに、ナレーションや吹き替えの現場は機械音声にとってかわられるだろう。カラオケの音源が生バンドからすべてmidiデータに置き換わっていったように。そして、ひょっとするとゲーム音楽などの主題歌のヴォーカルがヴォーカロイドに取ってかわられつつあるように。
 しかし一方で、これも間違いなく人間にしかできない仕事は残る。
 その仕事とはどういうものなのか、ということだ。
 答えはいうまでもなくはっきりしている。

浅井信好「TSUBAKI」を観て音楽と朗読について考える

 昨日、中野の Plan B というスペースに舞踏を見に行った。
 タイトルは「TSUBAKI」。
 舞踏家は山海塾とありがとうというグループに属しているらしい浅井信好という人。私には詳しい事情はわからない。とにかく、ネットで見ておもしろそうなので見にいった。
 私は朗読家との即興はセッションを重ねてきているが、かねてより一度、舞踏家とも一対一の即興セッションをやってみたいと思っている。また、舞踏家/朗読家も交えてのセッションもおもしろいだろうと思っている。
 が、なかなかその機会がない。
 それはともかく、昨日の公演はなかなかおもしろかった。

 地下のライブスペースは、以前、私が住みながら使っていた豪徳寺の酒屋の地下のスタジオにそっくりで、なつかしい。
 踊りのための板敷きのフロアが広くとってあって、入るとロウソクが10数本、火をつけてぐるりと立ててある。その中心に男がひとり、衣装をまとって横たわっている。これが浅井信好。
 フロアの奥まったところにアップライトのピアノが置いてある。
 始まると、そこへピアニストがやってきて、おもむろに座って、煙草を吸う。
 しばらくして、演奏が始まる。その音にびっくりしてしまった。予想しなかったような美しいタッチのピアノの音。まさかこの地下室のボロピアノ(に見える)から、これほどの美しい音が出てくるとは予想していなかった。
 ピアニストは Yoshizumi という人らしい。ライブを通じて4つくらいのモチーフを順番に繰り返しながら、展開していく即興演奏だ。即興といってもジャズ的なアプローチではなく、私はむしろクラシック演奏家の印象を受けた。あるいは、ECM系のサウンド、そしてもちろんキース・ジャレット。
 ピアノの演奏に乗るような乗らないような動きで、ダンスも展開していく。ときに静かに、ときに激しく。ときに丸太のようにまっすぐに後ろに倒れたりすることもあって、ちょっとびっくりする。
 全体的に、人が生きることの悲しみ、苦しみ、矛盾、激しさ、暴力、そして生と死といったものを感じさせる表現。
 50分くらいのセッションが途切れることなくつづき、最後は最初とおなじように静寂にもどって終わった。

 とても刺激的なライブだったが、物足りなさも残った。せっかくの接近した空間なのに、「演じる側」と「見る側」という図式が最後まで崩されることなく、また舞踏家とピアニストの間に積極的なコミュニケーションは見られなかった。あるのかもしれないが、ピアニストが主導で展開し、それに舞踏家が合わせていくといった印象を受けた。そこが物足りなく感じたゆえんかもしれない。
 そうやって印象を延長させて考えていくと、朗読という表現の大きな可能性にあらためて気づかされる。
 朗読にはコミュニケーションがある。
 ダンスと音楽には言葉なく、そこに非言語表現の豊穣を感じるのだが、朗読においても非言語表現の豊かさに朗読者が気づいたとき、世界の大きな広がりが見えてくるはずだ。

リレー朗読イベント「三茶deロードク」の記録

 2009年10月24日午後、折しも三軒茶屋では「三茶de大道芸」というお祭りが開催されていましたが、その傍らで現代朗読協会がリレー朗読イベントを仕掛けました。
 夏目漱石の『坊っちゃん』を4時間という制限時間内に全編、朗読者が交代しながらのリレー方式で読みきってしまおうという企画です。音楽陣も参戦。通りすがりの人たちもどんどん巻きこんでの、前代未聞、力技あり、ユニークなアイディアありの、非常に楽しい催しとなりました。
 その模様をごく短い抜粋映像ではありますが、まとめたのでご紹介します。

 現代朗読協会公式サイトはこちら


彼女の仕事

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2009年10月24日土曜日

2009年10月21日水曜日

観覧無料・飛び入り歓迎!三茶deロードク

 毎年10月下旬、世田谷・三軒茶屋駅周辺で開催される一大イベント「三茶de大道芸」。毎年家族で見に行くという方もいることでしょう。今年は24(土)~25(日)日に行われます。
 この大イベントに、現代朗読協会がゲリラライブを敢行!?
 三茶の飲み屋街(小路)のひとつ「ゆうらく通り」で、24日の午後1~5時(頃)、現代朗読協会の面々がばかばかしくも実験的な“マラソン朗読”に挑みます。
 抱腹絶倒の大名作、夏目漱石「坊っちゃん」。これを複数人で読み継ごうというもの。マラソンというより“駅伝”ですね。
 音楽陣も、鍵盤ハーモニカやアコーディオン、パーカッションが乱入予定。
 路上でロードクセッション、しかも長編駅伝! 大道芸の祭典にふさわしい……のか!?
 そして! こんなパフォーマンス、おもしろそう……と思ったあなた! あなたもこの路上ライブに参加しませんか?
 ほぼ定期ライブになりつつある「げろきょでないと」(今号3.でもご紹介)のように、こちらも飛び入り参加歓迎です!
 来れば読むだけじゃなく、いろんなことに巻き込まれます、きっと。
 秋の午後、あちこちで大道芸が繰り広げられ賑やかな三軒茶屋で、あなたもパフォーマーに!
 コスプレもアリ!?
 読む阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら読まなきゃ損!!

◎日:2009年10月24日(土) 12時半集合、13時スタート17時まで
◎場所:三軒茶屋・ゆうらく通り「ラムジンギスカン羊々(ようよう)」の店先
※新玉川線・三軒茶屋駅「世田谷通り口」から地上へ。国道246に沿って駒沢方面に1~2分歩き、「養老の滝」の手前の路地(ゆうらく通り)を右に入る。路地なかほど左側。

◎出演者募集!
 4時間ずっとでなく、中抜けしたり、来られる時間だけでもOK。初見でも問題なし、自分のまんまで読みましょう! 当日急に時間ができて来てくださるというのも歓迎ですが、一応人員を把握しておきたいので、参加できる方はメールにて、来られる時間帯を書き添えてご連絡いただけるとありがたいです。
※問い合わせ・参加表明:info@roudoku.org

Cat's Christmas

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2009年10月20日火曜日

最近の水色文庫にUPしたテキストについて

 朗読用として使いやすいといわれている私のテキストを、毎日1編ずつ、過去作品や新作も織り交ぜながらUPしている水色文庫ですが、最近UPした作品についてちょっとコメントしておきます。
 水色文庫そのものについては、主旨や扱い方も含め、こちらをご覧ください。

「砂時計」
 こちらはYouTubeでライブ映像が紹介されています。朗読者は野々宮卯妙。
 現代朗読協会はそれなりにちゃんとしたホームページも公開しているんですが、なにしろ従来型の朗読教室やカルチャーセンターとはかなり違ったアプローチをしているので、一見、うさん臭げに見えることもあるようです。そういう方でも、YouTube映像を見て、「なるほど!」ポンと膝を打ち、体験ワークショップなどに申し込んでくれるパターンが多いみたいです。
 一見は百聞にしかず、というやつですね。皆さんもぜひご覧ください。YouTubeで「現代朗読協会」「砂時計」「野々宮卯妙」などのキーワードで検索すると出てくると思います。
 ちなみに、野々宮卯妙は現代朗読協会以外では朗読の経験がなく、もちろんそれまでにもひと前でなにかをやったこともない人です。いわば生粋のげろきょ育ちなんですが、ズブの素人が短時間でここまでやれるようになるといういい実例かもしれません。
 野々宮自身も好きな作品だということで、中野Pignoseなどライブパフォーマンスでもちょくちょくやることがあります。

「初霜」
 これも窪田涼子のYouTube映像が公開されています。かなり暗い作品に見えますが、実は明るい希望に満ちた作品です。ぜひ若い人に聴いたり読んでもらいたいです。
 近く、東京ガス展の協力イベントで、ライフバル渋谷・富ヶ谷店の特設会場にて、まだ大学生の朗読者・菊地裕貴が読む予定をしています。みなさん、ぜひ聞きにきてくださいね。10月31日から11月3日までのイベントです。

「温室」
 弓削雅枝と野々宮卯妙というユニットでツイン朗読と称してライブでやっています。YouTubeにも映像があがっています。雅枝&卯妙という実力者ふたりによるスリリングでユーモラスなパフォーマンスは、毎回爆笑と驚嘆を生んでいます。

「Bird Song」
 いろいろな人にいろいろな形で読んでもらっています。先日も大阪〈Vi-code〉で窪田涼子とやりました。カルメン・マキさんの朗読がCD『白い月』に収録されています。こちらのほうもお聴きください。
『白い月』の詳細はこちら

リサ

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2009年10月19日月曜日

iPhoneで全角スペース

 今回の大阪行きでは、私の役割は演奏がメインということで、持っていく機材をずいぶん吟味した。
 結局、予定していた midiコントローラーが間に合わず、Macを持って行くことにしたのだが、まあなんとかなった。が、いろいろと不便だった。対バンの若い連中が最高の機材を持ちこんでいて、うらやましかった。
 それはともかく、Macを持っていかないという選択肢もあった。iPhoneの音楽ソフトがおもしろく充実してきているので、それを使うという手もあった。が、研究がまだ追いつかず、それも断念した。
 将来的には iPhone 一機だけでやれたらおもしろいのに。もちろん、現地にキーボードかピアノがある、という前提はあるが。

 私の場合、演奏だけでなく、書き物ができなければならない。
 このところ、けっこうiPhoneで書き物をすませている。メールやインスタントメッセージはかなりiPhoneですませているし、ちょっとしたメモは全然問題ない。
 これでBLOG記事が書けないか、ということを前から思っていて、実際にかなり書いてみたりしているのだが、ひとつだけネックがあった。それは、なぜかiPhoneでは「全角スペースが入力できない」ということだ。
 読み物としての日本語の文章は、習慣的に「縦書き」であり、また段落の最初は
「一字下げ」というルールがある。ネットでの縦書きはともかく、これがされていない「ベタ打ち」のテキストには、個人的に抵抗がある。人のものを読む分にはかまわないが、自分の文章はなるべく通常の活字ルールを使って書きたい。ま、これもたんなる好みの問題なのだが。
 iPhoneのソフトウェアキーボードから全角スペースを入力する方法を、私は見つけられなかった。
 苦肉の策で、辞書登録という方法に出ることにした。
 iPhoneにはユーザー辞書の機能はないが、なぜか住所録に登録した人名などは、辞書学習の候補リストに出てくる。なので、住所録に「 」を辞書登録してみることにした。
 住所録はPCのほうで作り、あとでiPhoneと同期させる。
 人名の姓の漢字のところに「 」をPCで入力する。読みはなんでもいい。「あ」でも「ん」でも、あまり普段使わない、しかも打ちやすいものがいいだろう。
 住所録に登録しておいてiPhoneに同期させたら、みごとに全角スペースが入力できるようになった。
 これでMacを持たなくても、どこでもBLOGを書けるという安心ができた。ささやかな、つまらない安心ではあるが。

古い友人への手紙

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2009年10月17日土曜日

メイドロードクジョシュとジョシュジョシュ

 11月7日におこなわれるメイド朗読「メイドたちの航海 - 冥土'n Voyage - 」は、出演者も10名と充実してますが、スタッフ陣も充実しています。
 いつもひとり演出(に加えて脚本/音楽/演奏まで)として孤軍奮闘してきたMIZUKIですが、このたび、念願の演出助手をつけてもらえることになりました。しかも3人も! 正確にはひとりは「助手の助手」ですが。
 今回はその助手の暫六月と、助手助手の唐ひづるに、ライブの内容や稽古の模様について聞きました。

 ケロログ「RadioU」で配信中。

Thank You So Much

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2009年10月16日金曜日

ぶっつけ本番は失礼なのか?

 まだ若い朗読者がたくさん反復練習をするので、なぜと聞いてみたことがある。
 すると、
「ぶっつけ本番は失礼じゃないですか」
 という。
 なにが失礼なんだろう、と私は考える。
 ひと前で自分を表現するパフォーマンスには、ふたとおりある。パフォーマンス自体をきっちり練習して、何度やってもおなじようにやれるような再現性を重視するやりかた。もうひとつは、なにが起こっても対応できるように柔軟性を鍛えておくやりかた。
 音楽にたとえるとわかりやすい。クラシックとジャズ。クラシック音楽は楽譜に書かれた音楽を自分なりに解釈し、弾きこみ、狙った表現をピンポイントで再現しようとする。もちろんそうじゃない方法もあるが、一般的な話として。
 ジャズの場合は、曲目、共演者、環境、気分、すべてによって表現が変化するし、また変化するための練習をする。ジャズミュージシャンは一曲を何度弾いても同じように弾けるようには練習しない。何度弾いても違うように弾けるように練習する。
 朗読でも似たような表現態度がある。

 現代朗読協会の野々宮卯妙という朗読者が、あるライブハウスでアンコールをせがまれ、思いつきでその店のメニューを朗読した。これはお客さんに失礼なのか。
 私はそうは思わない。彼女はこのようにとっさにテキストを渡され、たとえ初見であっても、テキストやその場の雰囲気に反応し、一定のパフォーマンスを発揮できるように、反復練習だけでは獲得することのできないすぐれた能力を身につける難しい努力をしてきた。いまもしている。生活そのものが常に柔軟なパフォーマンスを発揮するためにあるのだ。
 日々努力し、ステージに立つときは全身全霊をこめて観客と向かい合い、反応する。その場を共有する。ともに時をすごし、命の炎を燃やす。
 この姿を見て、「失礼だ」などという者はいない。

【RadioU】朗読初心者が現代朗読協会にたどりつく方法

 RadioU初登場のレイラさんは、YouTube映像を見て衝撃を受け、現代朗読協会の体験ワークショップを受講してみることになったそうです。
 そういえば、最近、朗読をほとんどやったことのない新人の方がたくさん現代朗読協会を訪れますが、いったいどのようなルートをたどってやってくるのか、暫六月や野々宮卯妙も交えてじっくりと語ってもらいました。
 また、10月31日から11月3日まで開催される東京ガス展での協力イベントについても、ご案内しています。

 ケロログ「RadioU」で配信中。

語りっ娘ニュース No.75

 語りっ娘・小林沙也佳ちゃんの活動報告である「語りっ娘ニュース」の最新号が届いたので、紹介します。
 画像をクリックすれば大きく表示されます。

ロードクセッション「げろきょでないと Vol.2」のお知らせ

 スリルと冒険と愛のロードクセッションの第二弾。
 即興演奏と驚きのロードクパフォーマンスを展開し、音楽ライブを凌駕するほどのスリリングなライブ展開をおこなっている「げろきょ」こと現代朗読協会(http://www.roudoku.org)が提供している驚きと共感の一夜。
 今回の出演はYouTube映像(http://www.youtube.com/youbunko)などでも話題沸騰中の野々宮卯妙、弓削雅枝(初参入)、千田るみ子ほかと、音楽演奏のMIZUKIとうらら。
 現代朗読体験もおこないます。飛び入り歓迎です。体験希望の方はテキストをお持ちください。「こまかいこと」は現地で相談、です。 そもそも「こまかいこと」をいわない自由なライブです。

◎日時 2009年11月4日(水) 19:30-22:00
◎場所 中野Pignose(中野区新井1-14-16)
◎料金 ミュージックチャージ 1,500円ほか飲食代

 とてもフレンドリーな店です。つまり、小さな店です。
 入場数に限りがありますので、おいでいただく方は事前に私までひとことお知らせいただけるとうれしいです。
 前回10月7日におこなわれたライブの様子の一部をYouTubeでご覧いただけます。

 Vol.1「死の花」
 Vol.2「ユークリッド原論」
 Vol.3「砂漠の少年」
 Vol.4「愚なる(?!)母の散文詩」
 Vol.5「ある心の風景」
 Vol.6「丘の上の男」

茄子のグラタン

 しばらく、お待たせ。
 先日作った茄子のグラタンの作り方。オーブンがなければ、オーブンレンジでも作れるはずです。

【材料】4〜5人分
・茄子……5、6個
・合挽肉……250グラム
・トマト缶……一個
・赤ワイン……100cc
・にんにく……ひとかけ
・鷹の爪……1本
・チーズ(パイ用)……1カップ
・小麦粉、ベイリーフ、オリーブ油、塩、コショウ、パプリカ

 茄子を5ミリ厚くらいの斜め薄切りにし、軽く小麦粉をまぶします。
 フライパンにオリーブ油を敷いて、茄子を敷いて両面とも焼きます。完全に火が通る必要はありません。一度に焼けないので、順番に焼いていきますが、ここのところが一番手間がかかります。根気よく。
 全部焼きあがったら、フライパンを洗い、あらたにオリーブ油を入れ、にんにくのみじん切りと鷹の爪を弱火で炒めます。
 香りが立ってきたら、火を強め、合挽肉を炒めます。塩、コショウ、パプリカを適量加えます。ほかにクミンやコリアンダーなど、お好みの香辛料を加えてもいいでしょう。
 肉の色が変わって火が通ったら、トマト缶を加えます。ホールの場合はつぶしながら。
 赤ワインとベイリーフを加え、しばらく煮込みます。
 茄子の半分をグラタン皿に敷きつめます。グラタン皿がなければ、私もそうしてるんですが、アルミホイルを二重にして皿を作って、そこにならべます。
 フライパンのミートトマトソースをその上に流しこみます。
 チーズをまんべんなく乗せます。
 その上に残りの茄子を敷きつめます。
 さらにチーズをトッピングして、準備はオーケー。
 あとは、200度に加熱したオーブンに入れ、15分焼けば完成です。

Time After Time

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2009年10月15日木曜日

げろきょでないと Vol.6「丘の上の男」

 中野のライブスペース〈Pignose〉で「げろきょ」こと現代朗読協会のメンバーがおこなうロードクセッションのシリーズ「げろきょでないと」の第一弾です。
 その Vol.6 として、ロードクの野々宮卯妙とピアノのMIZUKIによるセッションをお送りします。テキストは水城雄サウンドスケッチから「丘の上の男」です。

 なお、次回「げろきょでないと」は、同じく中野Pignose にて2009年11月4日(水)の夜、開催されます。

【RadioU】未成年メイドはロードクライブの夢を見るか

 11月7日におこなわれる現代朗読協会のロードクライブは、なんとメイド朗読。題して「メイドたちの航海 - 冥土'n Voyage - 」。
 総勢10名のメイドさんがロードクを披露します。
 そのなかでも最年少の佐藤綾花は、今回が初ライブ出演。大学一年生で、まだ未成年というフレッシュさです。
 Podcastも初出演で、おなじみの弓削雅枝がサポートしてます。

「メイドたちの朗読」は11月7日14:00から、東松原の〈Spirit Brothers〉で開催。残席僅少。ご予約はいますぐ!

 ケロログ「RadioU」で配信中。

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2009年10月14日水曜日

げろきょでないと Vol.5「ある心の風景」

 中野のライブスペース〈Pignose〉で「げろきょ」こと現代朗読協会のメンバーがおこなうロードクセッションのシリーズ「げろきょでないと」の第一弾です。
 その Vol.5 として、ロードクの照井数男とピアノ/キーボードのMIZUKIによるセッションをお送りします。テキストは梶井基次郎が京都の風景を織り交ぜながら書いた小品「ある心の風景」からの抜粋です。

 なお、次回「げろきょでないと」は、同じく中野Pignose にて2009年11月4日(水)の夜、開催されます。


2009年10月13日火曜日

女座頭市と初代座頭市

 座頭市のシリーズを2種類、続けて観た。昔から座頭市シリーズのファンなのである。当然、たけしの座頭市も観たけれど、あまり印象には残っていない。
 今回観たのは、まず、女性が座頭市役というおもしろい設定の「ICHI」。発想はおもしろいと思った。主人公に扮したのはいまをときめく綾瀬はるか。監督は曽利文彦。ほかに、剣を抜けなくなってしまった剣豪役で大沢たかお、適役のボスに中村獅童なども、脇をそれなりに個性的な俳優がかためている。
 それなりによくできていると思って、楽しんで観たのだが、そのあとに元祖座頭市を観てしまったのがいけない。
「座頭市物語」
 勝新太郎が初めて主演し、いきなり大スターにのしあがるきっかけとなった作品だ。1962年製作というから、いまから47年も前に作られたもので、モノクロフィルム。
 映画のなかに人間が生々しく生きている。体臭や息づかいまで感じられる。こりゃ大スターになるわな。
 それに比べると「ICHI」はまるで記号の寄せ集めだ。軽い。その軽さが、現代にはウケるのかもしれないが。

 ふたつを見比べて思ったのは、かつての情熱をつぎこんで人々が必死に作っていた時代から、映画は50年を経て確実に著しく「劣化」しているのではないか、ということだ。
 劣化しているのは映画だけではないだろう。私たちはともすれば、昔より現在のほうがどんなものごとも進んでいて、あたらしいもののほうがすぐれているという錯覚におちいりがちだが、昔のほうがすぐれていたことはいくらでもあるということを自戒し、学びの姿勢を忘れてはならないと自分にいい聞かせている。

げろきょでないと Vol.4「愚なる(?!)母の散文詩」

 中野のライブスペース〈Pignose〉で「げろきょ」こと現代朗読協会のメンバーがおこなうロードクセッションのシリーズ「げろきょでないと」の第一弾です。
 その Vol.4 として、ロードクの暫六月(しばしむつき)とピアノのMIZUKIによるセッションをお送りします。テキストは岡本かの子がわが息子・岡本太郎の幼いころに書いた小品「愚なる(?!)母の散文詩」です。

 なお、次回「げろきょでないと」は、同じく中野Pignose にて2009年11月4日(水)の夜、開催されます。


ポン酢の作り方

 この季節、いろいろと柑橘類のフレッシュなものが出回ります。私も人からいただいたりすることがあるんですが、焼き魚や茸の炒め物などにキュッと絞っていただくのは最高ですね。
 たくさんいただいたときには、ポン酢を作っておきます。市販のものよりずっとおいしく、また添加物がはいらないので安心です。

 作り方は簡単。
 まず、ダシを取ります。私はポン酢には昆布だしが合うように思います。昆布を水から煮出して、沸騰したら取りだします。
 ダシの5分の1くらいの分量の酒を入れます。
 ダシの3分の1くらいの醤油を入れます。
 砂糖を少し、お好みで加えます。ダシ100ccに対して小さじ一杯くらいでしょうか。
 火にかけて、ふたたび煮立たせます。
 柚子なりカボスなりを絞って、絞り汁を加えます。それから搾りかすのほうも一緒に入れて、しばらく火にかけます。
 これで完成。あとは冷まして使います。

げろきょのこの一年、そして世界は

 コンピューターのファイルを整理していて、たまたまちょうど一年前の写真やら日記が目にはいった。
 一年前の私はなにをしていたのか。たった一年前のことだけれど、はるか遠い昔のように記憶はかすんでいる。それほどこの一年の間に、なにがしかの出来事がみっちり詰まっている。
 歳を取ると日時のすぎるのが早く感じるようになるというけれど、私にかぎってそれは違っている。むしろずっとノロノロと、ジワジワと、みっちりと進んでいっているように感じる。一ヶ月前のことですら、一年も二年も前の出来事のように思える。

 一年前には、私と現代朗読協会にとって大事なトピックがあった。それは、「現代朗読を体験しよう」というワークショップがスタートしたことだ。いわゆる「体験ワークショップ」。
 これが私と現代朗読協会を大きく変えた。
 本当は無料でやりたかったのだが、それだとちょっとピントはずれな人まで来てしまうのではないかという懸念による参加費1,500円(現在は2,000円)というフィルターをかけることにした。
 振り返ってみると、この体験ワークショップ開催スタート以前の現代朗読協会(げろきょ)と、以後のげろきょとでは、メンバーがほぼ9割がた入れ替わってしまっている。一年前にいた人たちの9割は、いまはもういない。逆に、いまいる人たちのほとんどが、一年前にはいなかった人たちだ。
 じゃあ、いまいる人たちも一年後にはみんないなくなってしまうのか、というと、そうではないような気がする。これからの現代朗読協会は、いまいる人たちに支えられて将来もあるのではないかと思っている。

 一年前まで、私は現代朗読協会という組織を維持するために、なんとか維持費を捻出しようと、いろいろなワークショップを手を変え品を変え、実行していた。その参加費も(いまから思えば)かなり高額なものだった。
 結果的に、プロ志向の強い人、実利を求める人、出した金額に見合うだけのなにかを得ようとする人、そういった人たちが集まってきていたように思う。ナレーターやアナウンサー、声優、その卵、そういった人たちが多かった。
 彼女たちは他では学べない多くのことを現代朗読協会で学んでいってくれたと思うし、また私も彼女たちから学ぶことが多かった。が、実利主義の世界では、ある一定の必要なことが終わった後は、その場にはもう用はない。次の実利を求めて別の場所へと去っていくばかりだ。
 このエピソードは、私がかつてテキストライティングの世界でやっていた「小説工房」という集まりにもあてはめることができる。寂しいことだが、実利主義の世界では、実利がもう得られないとわかった瞬間に、人はその場を去っていってしまうのだ。目的は「実利」であって、「人との関係」ではないのだから。「小説工房」のときにあれほど濃密につながりあっていたと思っていた人々と、いまだにつながりを持てている人はわずかにすぎない。

 現在の私と現代朗読協会は、ようやく実利主義から抜けだすことができたと思う。
 いま、ここにいる人たちは、実利を求めていない。少なくとも経済的には。心豊かになることを欲し、その方法をともに考え、実行する仲間である。「朗読」は自分を表現する手段であり、自分と世界のありようを考えるためのツールでもある。それはだれもがすでに持っているものだ。だれもがいますぐにでも始められる。
 声を出す。言葉を発する。コミュニケートする。ただそれだけのシンプルなものだ。それがひとりひとりの世界の扉を大きく開く。

 この一年のあいだに、ほかにはなにが起こったんだろう、と考えてみた。
 ひとつには、もちろん、「現代朗読」という方法の純粋化だろう。
 もうひとつには、アレクサンダー・テクニークの講師をつとめてくれている安納献くんが持ちこんできた「非暴力コミュニケーション(NVC)」の考え方がある。これを抜きにしては、いまのげろきょはありえない。
 まだまだ完全には理解できていないし、実行できてもいないが、自分なりになんとか応用しようと格闘しながら名古屋「Kenji」公演のワークショップに持ちこんで応用し、公演の成功に導くことができたと思っている。
  公式なNVC-Japanの人たちがどう見ているかわからないが、私は私なりに非暴力コミュニケーションの実践の場として現代朗読協会を運営したいと思っているし、また運営している。現代朗読は、自分を発見し、回復し、認めあい、共感するためのツールだからだ。

 たった一年のあいだに、世界の価値観は大きく変化したように感じている。
 暴力、競争、効率追及、過剰なエネルギーと物質の消費。そこから抜け出し、新しい価値観の中で心豊かに生きること。
 私たちはそんな時代に足を踏みいれようとしているのではないだろうか。

ロードクライブ「メイドたちの航海 - 冥土'n Voyage - 」のお知らせ

 毎回「朗読」という特定イメージの殻を打ち破る演出で皆さんを驚かせている現代朗読協会のロードクライブですが、今回はなんと、出演者全員がメイド服で登場です。
 当然ながら、ロードクは全員、女性です。
 まるで音楽ライブのように楽しんでください。

「とびきりキュートなメイド朗読者たちが、とびきりのとっておきストーリーを語ります。この日あなたはトワイライトゾーンに足を踏み入れる」

 完全予約制。
 残席わずかです。お早めに直接私までご連絡ください。

日時:2009年11月7日 14:00開場/14:30開演
場所:東松原〈Spirit Brothers〉
  東京都世田谷区松原5丁目2-5(京王井の頭線東松原駅徒歩1分)
  TEL 03-5355-3963
料金:2,500円(1ドリンク付き)完全予約制(当日券はありません)

主催 現代朗読協会
構成/脚本 水城雄
演出/音楽 MIZUKI

出演
 唐ひづる
 まりも
 嶋村美希子
 城崎つきみ
 暫六月
 レイラ
 佐藤綾花
 小梅ゆかり
 千田るみ子
 豊津加奈子

演奏 MIZUKI/うらら

制作 照井数男

演出助手
 小梨由美
 城崎つきみ

照明 弓削雅枝
音響 菊地裕貴
美術 大庭花音

How Deep Is the Ocean

 を〈水色文庫〉のほうに書きこみました。
こちら

2009年10月12日月曜日

私たちはなぜライブや公演をやるのか

 私たち人間はなんのためにひと前に出てなにかをやるのだろうか。
 芸術にしても音楽にしても、芸能にしても、あるいはスポーツにしても、もちろん私たち人間は「表現行為」をせずには生きていられない動物だからである。
 その「表現欲」には個人差があるし、またおなじひとりの人間でも年齢のなかで変化していくこともある。若いときには表現欲に突き動かされて芸術家をめざしていたのに、中年になってからすっかりおとなしくなってしまう人とか。あるいは逆に、学生から社会人、あるいは結婚生活と、とても平凡な生活を送ってきた人が、突然表現欲求に突き動かされて、なにかを始めたりすることもある。
 いずれにしても、人はだれかに理解されたり、認めてもらうことで、自分自身の存在を確認することができる。なぜなら、自分は自分自身のなかに閉じこめられているので、厳密な意味で客観的には自分を認めることができないからだ。なにかを表現し、自分以外の人のリアクションを受けとることで初めて、自分の存在を認めることができる。

 朗読や演劇、音楽の世界では、自分たちを表現する場としてのライブや公演がある。
 私もいま、10名ほどの仲間と小規模な朗読ライブの準備を進めているが、自分たちが「なんのためにライブをやるのか」ということについて、しばしば確認することにしている。
 ライブや公演というと、たくさん準備やリハーサルをして、お客にできるだけ完璧なものを見ていただこうとする人や集団が多いようだが、私たちは違う。
 多くの集団が、
「せっかくお金を払って見に来てもらうのだから、できるだけいいもの、対価に見合うだけのものをお見せしたい」
 と考え、入念に準備をする。が、私たちはそういう考え方をとらない。
「楽しみ」であったり「泣ける」ことであったり「お笑い」であったり、「超絶的な技巧」であったり、なんでもかまわないのだが、観客が対価に見合うだけのなにかを求めてライブや公演に来る場合、それは「消費行動」と呼ばれる。3000円のシャツを買ったり、100万円の車を買ったり、100円の人参を買ったりすることと基本的にはなにも違わない。ただライブや公演はモノではないので形がないだけである。消費行動という意味では、経済的におなじ意味を持つ。
 しかし、私たちはなにかを売るために表現をおこなっているわけではないのだ。もちろん、自分自身を売ることもしない。
 私たちは私たちがおこなうなにかを「売る」ことなどしたくはないのだ。
 では、なんのためにライブや公演をおこなうのか。

 これまでに何度も書いてきたが、私たちは「共感の場」を作りたくて表現をおこなっている。
 人は共感する動物である。共感の場でしか生きえない生き物である。自分を認め、自分が認められ、また人を認め、共感的な存在として対面したとき、そこには「売り買い」ではない水平な関係が生まれる。その場にはまた「学び」も生まれる。「学び」によって人は「成長」する。
「共感」「学び」これがキーワードだろうと思うのだ。
 私たちは共感の場を作る。そこには予期しないさまざまなことが起こる。感動的なことが起こることもあれば、びっくりするようなハプニングが生まれることもある。また、私たちの表現を受けて変化する人々の表情、感情、身体を感じることもできる。そこから私たちは学ぶのだ。自分が表現することでなにが起こりうるのかを。
 学びはさらなる表現へとつづき、その過程で私たちも、そして来てくれた観客も成長する。そこは決して消費行動の場ではない。
 重ねていうが、私たちはあらかじめ準備し作り上げられた完成物をそこに提示するのではない。いまここに生きて変化しつづけているありのままの私たちをそこに置き、来てくれた人々とコミュニケーションを作る。関係性を見つめる。そのなかで学び、さらに変化する。
 時間は流れつづけ、私たちの身体も感情も存在も、すべては動いていく。
 来てくれる人からお金をいただくとすれば、それは共感の場を成立させるために必要な血液としてである。献血をする人がそうであるように、来てくれる人が喜んで提供してくれるものだけを、私たちは受け取る。

非暴力コミュニケーション東京セミナーのお知らせ

 NVCの東京セミナーが11月13日および14~15日に開催されます。
 CNVC(Center of Non-Violent Communication)認定トレーナー、フランソワ・ボーソレイユさんを講師として招聘、通訳はアレクサンダー・テクニークで講師をしてくれている安納献さんが務めてくれます。
 詳細はこちら

(1) 非暴力コミュニケーション入門 in 東京
 日程:11月13日(金) 18:30-21:30
 対象:NVC初心者
 受講料:3500円(予定)

(2) 非暴力コミュニケーション週末講座 in 東京
  人間関係に調和をつくり出す実際的な方法
 日程:11月14日(土)10:00-19:00+11月15日(日)10:00-17:00 (2日間)
 対象:NVCに興味のある方(初級~中級)
 受講料:基準額25000円
  各人の必要に応じて15000~35000円のスライディングスケールを採用

 会場はなんとわが現代朗読協会羽根木の家です!
 本場の講師からNVCを直接学べる好機です!
 金曜の入門セミナーは出やすいのでおすすめです。すでに申込受付が始まっていて金曜日はけっこう早く埋まりそうなので、興味ある方はお急ぎください。直接私MIZUKIまでコンタクトください。

げろきょでないと at 中野Pignose Vol.3(2009.10.7)

 中野のライブスペース〈Pignose〉で「げろきょ」こと現代朗読協会のメンバーがおこなうロードクセッションのシリーズ「げろきょでないと」の第一弾です。
 その Vol.3 はとして、ロードクの千田るみ子とピアノのMIZUKIによるセッションをお送りします。テキストは水城雄のオリジナル作品「砂漠の少年」です。

 なお、次回「げろきょでないと」は、同じく中野Pignose にて2009年11月4日(水)の夜、開催されます。


2009年10月11日日曜日

2009年10月10日土曜日

げろきょでないと at 中野Pignose Vol.2(2009.10.7)

 中野のライブスペース〈Pignose〉で「げろきょ」こと現代朗読協会のメンバーがおこなうロードクセッションのシリーズ「げろきょでないと」の第一弾です。
 その Vol.2 はとして、ロードクの照井数男とピアノ、バイオリンによるセッションをお送りします。テキストは、なんと、数学の基本的な定理「ユークリッド原論」です。
 Vol.1「死の花」はこちら

 なお、次回「げろきょでないと」は、同じく中野Pignose にて2009年11月4日(水)の夜、開催されます。

東京ガス展でミニライブとミニ体験ワークショップをおこないます

 10月31日から11月3日まで、東京ガスの秋の展示イベント「東京ガス展」が開催されますが、現代朗読協会がそのイベントの一部に協力することになりました。
 ライフバル渋谷・富ヶ谷店特設会場(地下駐車スペース)にて会期4日間の毎日、定時3回のミニライブ(朗読とピアノ演奏)およびミニ体験ワークショップ(現代朗読)をおこないます。

〈ミニライブ〉
 現代朗読協会がおこなっている音楽ライブに近いリスナーフレンドリーなパフォーマンスで、子どもから大人まで楽しめる内容です。

〈ミニ体験ワークショップ〉
 だれでも参加できる体験ワークショップです。
 従来の朗読のイメージを払拭する、コンテンポラリーでより身近な、かつエンタテインメント性・コミュニケーション性の高い現代朗読の方法の一端を体験してもらい、皆さんに朗読の気軽さと楽しさを知ってもらいます。

〈スケジュール〉
 会期中の毎日、午前11時、午後1時、午後3時から、それぞれミニライブ、ミニ体験ワークショップ、ミニライブをおこないます。
 会場ではいれたてのおいしいコーヒーと、最新ガステーブルで実演される焼き菓子がふるまわれます。

〈会場〉
(151-0063)東京都渋谷区富ヶ谷1-49-4
TEL:03-3485-1474

 入場無料です。
 どなたでも気軽にお越しください。

Death Flower

 を〈水色文庫〉のほうに書きこみました。
こちら

2009年10月9日金曜日

げろきょでないと at 中野Pignose Vol.1(2009.10.7)

 中野のライブスペース〈Pignose〉で「げろきょ」こと現代朗読協会のメンバーがおこなうロードクセッションのシリーズ「げろきょでないと」の第一弾が、10月7日におこなわれました。
 現代朗読協会は従来の朗読を越えた、音楽ライブに近い音声表現「ロードクセッション」を追求しています。ご覧のとおり、音楽とロードクが一体化した即興性の高いセッションです。
 その Vol.1 として、ロードクの野々宮卯妙と音楽陣によるセッションをお送りします。テキストは水城雄のオリジナル作品「死の花(Death Flower)」です。

 なお、次回「げろきょでないと」は、同じく中野Pignose にて2009年11月4日(水)の夜、開催されます。


【RadioU】嶋村美希子の出演情報、トリはメイド

 現代朗読協会の正会員であり、学生タレントでもある嶋村美希子は、10月末から11月頭にかけて、ライブが目白押しの大忙し。
 まずは東洋大学の学祭「朝華祭」で10月31日と11月1日におこなう「猫朗読」。これはスライドや効果音も使い、教授や学生たちにもサポートしてもらっておこなう、かなりエンタテインメント性の高いものになるそうです。
 次は10月31日から11月3日まで開催される東京ガス展に現代朗読協会が協力するイベントに出ます。ライフバル渋谷・富ヶ谷店の特設会場でおこなわれる朗読イベントに、学祭で披露した猫朗読をおもむきをあらたに出演します。
 もうひとつは11月7日に東松原の〈Spirit Brothers〉で開催される「メイド朗読」への出演。
 それらの情報を含め、元気な嶋村といろいろトークしました。

 ケロログ「RadioU」で配信中。

メイド朗読チラシ、製作中(リークしちゃう)

 メイド朗読ライブのウェブチラシを作っていて、もうすぐ完成する。
 せっかくなので、その情報の一部をリークしてしまおう。
 出演者の人数の割に席数に限りがあるので、予約はあっという間に埋まってしまいそうだ。確実に予約したい方は、まだ予約フォームが準備できていないので、出演者または私まで直接おっしゃっていただければ、確保いたします。

「メイドたちの航海 - 冥土'n Voyage - 」
 とびきりキュートなメイド朗読者たちが、とびきりのとっておきストーリーを語ります。この日あなたはトワイライトゾーンに足を踏み入れる。

日時:2009年11月7日 14:00開場/14:30開演
場所:東松原〈Spirit Brothers〉
  東京都世田谷区松原5丁目2-5(京王井の頭線東松原駅徒歩1分)
  TEL 03-5355-3963
料金:2,500円(1ドリンク付き)完全予約制(当日券はありません)

主催 現代朗読協会
構成/脚本 水城雄
演出/音楽 MIZUKI

出演
 唐ひづる
 まりも
 嶋村美希子
 城崎つきみ
 暫六月
 レイラ
 佐藤綾花
 小梅ゆかり
 千田るみ子
 豊津加奈子

演奏 MIZUKI

制作 照井数男

演出助手
 小梨由美
 城崎つきみ

照明 弓削雅枝
音響 菊地裕貴
美術 大庭花音

2009年10月8日木曜日

中野Pignose「げろきょでないと」ライブレポート

 先日10月7日(水)夜、中野のライブスペース〈Pignose〉にて「げろきょでないと」というロードクセッションのレポート。
「げろきょでないと」というタイトルだが、これは「現代朗読協会」の非公式略称「げろきょ」の夜、という意味。
 ロードクセッションとか、朗読という固定イメージにとらわれないカタカナの「ロードク」を使うことで、朗読というよりむしろ音楽ライブに近い形での自由度が高い「セッション」をめざしていた。テキストを読む、ということだけが唯一のルールで、しかし読み方は自由。音楽は即興。朗読と音楽は即興的コミュニケーションをおこない、あらかじめなにかを仕組んだりたくらんだりすることは極力避ける。
 これがロードクセッション。

 午後6時半、早めに中野駅に到着したので、ブロードウェイを少しぶらつく。噂に聞いていた地下の8段ソフトクリームの店に行ってみる。すると、ライブワークショップの参加者で、今日はお客さんで来てくれるといっていた山口さんが、ひとりで悠然と8段ソフトクリームを食しているではないか。
 あとでわかることだが、これをひとりで食べきるのは並大抵のことではない。あとで合流した照井数男がおなじものに挑戦したが、食べきるのに非常に苦労していた。
 野々宮卯妙、うららさん、そして山口さん、照井くんといっしょに、7時に〈Pignose〉に行った。入口に暫六月と千田さんが待っていてくれた。みんなで店にいったが、まだ準備中で、出演者以外はもうしばらく待ってくれという。しかし、だれが出演者でだれが客なのか、すでにどうでもいい状態になっている。かまわず店に押し入った。
 うららさんに手伝ってもらって、PAのセッティング。今回、私はMacとミニキーボードを持っていった。電子音も使う予定である。
 あと、生ピアノの音量に対抗するために、マイクを使わざるをえない。

 7時半もすぎたので、とにかく始めてしまうことにする。最初はピアノソロから。
 そのまま、野々宮卯妙に一曲、いや、一話やってもらう。「燃える世界」というテキスト。
 次は照井数男。私は持ってきたMacとミニキーボードを使って、電子音と生ピアノの両方を使って即興演奏。テキストは梶井基次郎の「ある心の風景」。
 つづいて、暫六月による岡本かの子のテキスト。私はふたたび生ピアノに戻る。知り合いや、知り合いでないお客さんも何人かやってきた。
 それから、千田るみ子による私のテキスト「砂漠の少年」。
 ファーストステージの最後は、野々宮卯妙のロードクに、mizuhoさんのバイオリン、うららさんの歌に加わってもらっての「鳥の歌」のセッション。
 いずれも大変楽しく、自由に、スリリングなセットだった。

 休憩中に、初めてお会いするお客さんのひとりが、私がかつてバーテンダー時代に愛読し、つい最近惜しまれながら休刊が決まったサントリーの雑誌『クォータリー』の元編集長の谷さんだということがわかって、大変びっくりした。いろいろと話がはずんでしまった。
 その方が編集した老舗の和菓子店の冊子があったので、野々宮がセカンドステージをそれを読むことになった。

 9時すぎ、セカンドステージがスタート。最初は、今日はお客さんで来てくれた山口さんが、飛び入りでロードクセッション体験。持ってきた『星の王子さま』の一節を読んだ。ひと前で朗読をすること自体がほとんど初めてで、もちろんライブも初めてという山口さんだったが、まったくたくらまないストレートな素顔の見える読みを聴かせてくれて、大変よかった。
 2番めは、うららさんがロードクセッションでの初ピアノ演奏に挑戦。野々宮卯妙が私のテキスト「砂時計」を読む。私以外の人がピアノを弾くのは大変珍しいことなので、おもしろかった。これからもちょくちょくやってもらいたい。
 3番めは、mizuhoさんにバイオリンで参加してもらって、照井数男得意の数学の定理朗読。今回はユークリッド原論の朗読。いやー、何度聴いてもすばらしい。これがなんで最高のエンタテインメントになるのか、よくわからないけれど、おもしろいのだ。
 かなり盛り上がってきた。4番め。野々宮卯妙による和菓子の冊子のエッセイの朗読。お客さんである谷さんの書いたもの。
 5番め。開高健さんの緒言からスタートして、私のテキスト「ミラグロ」を野々宮卯妙が。
 6番め。お客さんで来ていた山野さんが、実はベーシストだということで、急遽加わってもらうことになった。ウッドベースが引きだされ、mizuhoさんも加わって、いきなり楽器だけによるブルースセッションが始まる。このあたり、まったく言語コミュニケーションが交わされていない。
 7番め。このユニットに、谷さんがカリンバでさらに加わって、野々宮卯妙による私の「死の花」という短編のロードク。
 最高に盛り上がってきたところで、このセットのまま、千田さんによる私の「また君は恋に堕落している」という詩のロードク。これがすばらしかった。演奏者も参加者も朗読者も、全員が一体となり、店のなかが異空間へと旅した瞬間が生まれた。

 終わってから、千田さんは「このまま明日が来なくても満足です」なんていっておられるし、初対面のお客さんたちからも「おもしろかった、また聴きたい」といってもらった。
 私たちも大変充実した気分で、刻々と台風が近づいてきている街を家路についたのであったが、その道中、つくづく感じていたのは、私たちがいま経験していることは、たんに「朗読」とか「音楽」といった枠を越えた、なにか別種の、しかし威嚇的でない、だれもが共有できる表現手段が誕生しようとしている、わくわくするその瞬間なのではないか、ということだった。

【YouBunko】Vol.20 まりも「A Red Flower」

 オーディオブック制作のアイ文庫が、オーディオブックに出演している実力派&個性派の朗読者をフィーチャーして朗読パフォーマンスとトークで構成するビデオ番組「YouBunko」。
 20回めは、YouBunko初登場のまりもによる朗読パフォーマンスをお送りします。

 少し前の夏真っ盛りの時期の収録で、背後ではセミの声がにぎやかです。夏のお姉さんといった風情のまりもは、癒しの朗読者としてファンが急増中です。
 テキストは水城雄のサウンドスケッチ作品「A Red Flower」で、これはカルメン・マキとの共作CD『白い月』にも収録されている作品です。

 前半がロードクセッションとトーク、後半がトークのみになっています。

 まりもは2009年11月7日(土)14:00からスタートの「メイドたちの航海」というライブに出演します。詳細は現代朗読協会ウェブサイトをご注目ください。



移動祝祭日

 を〈水色文庫〉のほうに書きこみました。
こちら

2009年10月7日水曜日

2009年10月4日日曜日

2009年10月3日土曜日

水城演出の特徴

(Photo by Funky Yoshi)

 いまやだれも知らないと思うけれど、インターネットが普及する以前、まだ「パソコン通信」といっていた時代、私は「小説工房」というネットコミュニティを主宰していた。
 いまもある、富士通系のプロバイダ「NIFTY」がまだ「NIFTY-Serve」と称していたころで、NEC系の「PC-VAN」なんてのもあった。私がNIFTY-Serveに参加したのは、1986年のことだったと記憶している。まだ会員が数千人しかいなかった。
「小説工房」は文字通り、小説を書くのが好きな人たちの集まりで、そこにはブロもいたし、プロをめざしている人もたくさんいた。私はそこで小説コンテストを開催し、コメントをつけ、おもしろい書き手が現れると徹底的にフォローしたりした。
 いまから考えると、それは「執筆演出」とでもいうべきものだったかもしれない。
 実際、小説工房から出た作家、ライターは数えきれないくらいいたし、一種のムーブメントのようになっていたそのコミュニティはかなり注目され、当時の通産省のなんとかいう賞をいただいたりもした。『小説工房』というタイトルの書籍も出版された。

 その後、私は商業出版の世界から距離を置き、いまはコンテンポラリーアートとしての朗読の研究と実践をおこなっているが、そのときの経験はとても役に立っている。
 というより、私という人間の特質はなんだろう、ということを考えた場合、自分自身でもはっきりわかっていることがひとつある。
 それは、
「自分以外のだれかのすばらしいところを見抜き、それをさらに輝かせるためにはどうすればいいのかを考えるのが得意」
 ということである。
 小説工房のときには、それはもの書きという「個人」に向けられていた。いま現在も、それは「朗読者」という個人にも向けられているが、「朗読者たち」という集合体にも向けられている。
 朗読者は基本的に「単体としての表現者」なのだが、集合体としての表現もおこなうことができる。先月(まだ一ヶ月ほどしか前だったことに我ながら驚くが)、名古屋でおこなったウェルバ・アクトゥス公演「Kenji」がそうだし、つい先日おこなった朗読ライブもそうだ。ずっとやってきたロードクセッションもそうだ。
 そのとき、私はなにを行なっているのか。
 私は人を観察するのが得意なようだ。だれかを見つめ、徹底的に観察し、その人が持っているポテンシャルを引きだす方法をあれこれと考える。その人が個人として、あるいはその人たちが集合体としてなにができるかを考える。考えるだけではなく、実際にやってみる。予期しなかったようなわくわくすることが起きることもある。
 私はそのとき、けっしてあらかじめ特定の完成イメージを決めることはしない。みなさんのひとりひとりのポテンシャルを引き出し、ぶつけたときに、なにが起こるかなんてだれにも予想できない。ただ私はそこに見たこともないなにかが起こるのを目撃する者として、わくわくしながら待ち構えるのみなのだ。
 そのとき私の意識は、一個人を離れ、全体の一部、いや全体そのものとして、ある。

音楽、小説の閉塞感、朗読の開放感・未来性

 学生時代のアルバイトは別にして、生活するための仕事として私は「ヨットインストラクター」「バーテンダー」「バンドマン」「ピアノ教師」「職業小説家」と経緯してきた。現在は小説家、音楽家、演出家、コンテンツプロデューサーなどをボーダーレスにやっているわけだが、世間的な分類でいえば私がおもに関わっているジャンルは「音楽」「小説」「朗読」ということになるだろうか。
 こうやってなんとなく自分が立っている場所をながめまわしていて、ふと気づいたことがある。
 これは私だけが感じていることなのかもしれないが、音楽にしても小説にしても、いま、かなりの閉塞感がある。「過渡期」といういいかたをする人もあるが、私はこの閉塞感は、音楽/小説という表現手段そのもののがいったん経済システムに捕縛され、形式の袋小路に入りこんでしまったところから来ているように感じる。
 本来、音楽/小説とはなにか。どのように表現されるべきものなのか。根源的な問いに立ちかえるときに来ているように思われる。その上で、特定ジャンルとしての未来はあるのかどうか。
 ところが、朗読はなんとなく風景が違うのだ。一見、朗読というと古くさい表現手段のように思われるし、実際そのような枠内におさまった表現が多数見受けられる。また、人々のあいだにもある一定の朗読に対するカビ臭い固定イメージが最大公約数的に存在するように見える。
 が、朗読というジャンルの最大のアドバンテージは、現在のところほとんど商業主義の枠に取りこまれていない、ということなのだ。
 もちろん、商業主義的におこなわれているものもたくさんある。が、マーケットが小さいゆえに大きな資本が入りこむことはないし、大きなお金が動くこともない。これを生活の手段とすることも極めて難しい。経済システムの枠に閉じこめられていない分、ようするに「なんでもあり」の状況がいまあるのだ。
「音楽」小説」「朗読」とならべて見たとき、朗読のなんと開放感があることか。なんと未来に向かって開かれていることか。
 私は逆に、コンテンポラリーアートとしてはほとんど手つかずのこの分野に、小説や音楽を持ちこむことによって、なにかおもしろくて新しいことができるのではないかと思っている。そして実際に試みている。
 朗読に音楽を持ちこむのではなく、朗読の手法を用いて音楽をリメイクする。文学を朗読するのではなくて、朗読で文学をリメイクする。
 私たちがいろいろやっているこの現場で、確実になにかあたらしいことが起こり、生まれつつあるのは間違いない。