2010年3月24日水曜日

我々は消費するのではなく昇華する

 人はだれもが大なり小なり抑圧を持っていて、それを完全に解消させることは難しい。というより、人は人として生まれた以上、それ自体矛盾を抱えた存在であり、抑圧から逃れるすべはない、というようなことをいっていたのはラカンだっけ、レヴィナスだっけ。
 しかし、抑圧から逃れたいという強い欲求は、どんな人間で持っている。抑圧から逃れるすべはない、とわかっていても、抑圧から逃げるための行動を人は取りたがる。
 抑圧から逃れるための行動のひとつが「カタルシス」の追求だ。
「カタルシス」とは、簡単にいえば、
「あーすっきりした」
 という感覚である。浄化ともいう。
 たとえばジェットコースターに乗ったり、ヤケ食いしたり、ロックコンサートに行ったり、クラブで踊りまくったり、映画を観て思いきり泣いたり、買い物したり、といったことだ。
 このカタルシスを求める行動は「消費行動」ともいえる。「消費」にカタルシスを感じるのは、だれにでも実感のあることだろう。巧妙なビジネスマンや経済システムは、カタルシスを求める人の抑圧をうまく利用してお金もうけをする。このハイテク時代に霊感商法などというものがまかり通り、いつまでもなくならないのはそのせいだ。
 精神分析療法では、その人が持っている抑圧を顕在化させることで、カタルシスを得て、抑圧が解消されるとしている。が、それはとてもつらい作業であり、また時間もお金もかかるので、よほどの余裕がある人でなければそういう治療を受けることはできないし、また、治療を受けても確実に抑圧から逃れられるかどうかという保証もない。なにしろ、人間存在そのものが抑圧を抱えたものである、という説もあるのだ。そして私はその説に説得力を感じる。

 抑圧と付き合うもうひとつの方法がある。それは抑圧を「昇華」する方法だ。自分の抑圧を見つめ、その存在を認めるところから「昇華行動」がスタートする。昇華行動は表現行為といいかえてもいい。
 芸術家の多くが内在する抑圧と向き合い、それを表現に生かすことで「昇華」していく。そのとき、抑圧はむしろ表現のためのテコとして働く。抑圧が大きければ大きいほど、生まれるものが人を感動させるものになることもある。どうせ抑圧から逃れられないなら、「昇華」という行動に向かって表現者をめざすというのはどうだろう。
 なにも芸術表現に限らなくてもいい。大げさに考えなくても、私たちはいつも表現している。
 たとえば、料理。それを「消費」してカタルシスを得るのか、「昇華」に用いて表現するのか。ただ食べて「あーおいしかった」と一時的に満足するより、作ることで自分を表現し、だれかと「おいしいね」という共感を味わう。そういう昇華行動、表現行動もありうるだろう。
 意識として消費者であるのか表現者であるのか。日常における見た目はあまり違わなくても、内容にはとても大きな違いである。