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2010年7月31日土曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.28

芸術家は一般庶民とはまったく違う技術レベルを獲得することで、みずからの存在意義と優位性を確保する。そのことで生活を保障される。そういうシステムが19世紀までつづいていた。が、20世紀にはいってから芸術表現にもあたらしい考え方が生まれてきた。

たとえばアメリカの作曲家であったジョン・ケージは、作曲家という「特権的技能者」の地位を、一般庶民とおなじレベルにまで引きさげようとし、また自分自身もそれを実行した。彼は「音楽とはなにか」という根源的な問いをみずからに課し、さまざまな作品を残した。

ケージの作品のなかでもっとも有名なものに「4分33秒」がある。どういう作品なのかは述べないが、この作品でケージが提示したのは、我々が「音楽」だとして聴いているものはなにか、楽譜に書かれていない物音やかすかなノイズは音楽ではないのか、という問いだった。

「4分33秒」はいわゆる「楽譜」ではない。音符はただのひとつも書かれていない。つまり、「音符を書ける」という作曲家の特権的能力を一切使っていない。裏返せば、音符が書けなくてもどんな人でもアイディアさえあれば作曲家になりうることを示している。

275 ケージは「チャンス・オペレーション」という手法を提示している。これは作曲家の恣意を排除するもので、音楽はひと握りの特権階級のものではない、偶然性や環境そのものも音楽の要素であり、だれもが音楽を作り、共有し、楽しむことができる、という考え方を示している。

ケージの言葉で私にとってもっとも印象的なものは、「だれかがだれかに雇われているというような世界が早くなくなってしまえばいい」というものだった。彼は人間の上下関係を嫌い、すべての人が芸術家、表現者になることで、互いに平等な立場になることを望んでいた。

これが現代芸術(コンテンポラリーアート)のしめす根源的な考え方であると私は思う。19世紀以前の、人がだれかより優位に立つための芸術ではなくて、人と人が対等につながりあうための芸術、共感しあうための表現、これが20世紀以降の現代芸術、現代表現だろう。

私自身についていえば、20代のころ音楽を始めたときにせよ、30代で職業小説家をやっていたときにせよ、とにかく人より優位に立つことしか考えていなかった。小説でいえば、だれも思いつかないような波瀾万丈でスリリングなストーリーを考えることしかしていなかった。

人を驚かせ、意表を付き、感心され、そのことで金銭対価を得ようと必死だった。毎日が競争であり、効率追求であり、暴力的な自己推進だった。現代朗読協会で体験ワークショップを始めたとき、初めてそのことの前時代性に気づき、今後目指すべき方向性が見えてきた。

ジョン・ケージの言葉もすんなりと入ってきたし、現代芸術も理解できるようになった。そして、従来の朗読表現がいかに前時代的、技術誇示的であるのか、見えるようになった。私たちはそういうものはもはや目指していない。共感と、場の共有のために表現活動をしていく。

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2010年7月30日金曜日

iPhone にしてから1年半

iPhone にしたら、ビデオカメラもデジタルカメラも音楽プレーヤーも電子辞書も不要になったので、カバンが劇的に軽くなったかというと、そうでもないのだが、いざとなければ軽くすることはできるという余裕ができたことは確か。
なぜ軽くならないかというと、不要になった機器を持ちあるかないかわりに、その分、ノートだの水筒だの、楽器だの、いままで持とうと思っても持てなかったものをついつめこんでしまうせいだ。

一番大きいのは、本を持ち歩かなくてすむようになったことかもしれない。
もちろん私は紙の本を読むことがまだまだ多いが、出かけるときはそれは置いておいて、iPhone に入れた電子書籍を読むようにすれば、荷物は劇的に少なくなる。それに、電子書籍は英語の本が圧倒的に多いので、英語での読書が増え、英語の勉強にもなる。
あと、紙の手帳はどうしてもはずせない。こればかりはデジタルのメモで代用するわけにはいかない。
それにしても、恐ろしく便利になったものだ。いずれきっと払わされる代償が怖い。

今日は自分を分類整理すべく、ウェブサイトの工事。
全部手書きにしてみるか、と思って、絵や字をしこしこと書いては写真に取り、それを貼りつける作業。
意外にいいかも。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.27

仕事の依頼があろうがなかろうが、公演があろうがなかろうが、日常的になにかを朗読している。なにも目的がなくても、そこらへんにある本や雑誌を手にとり、朗読する。聴いてくれる人がいてもいなくても、とにかく朗読する。それは目的ではなく、生き方なのだ。

おおげさなようだが、朗読以外の世界にはそういう人はたくさんいる。仕事の依頼が来てはじめて筆をとるのはイラストレーターやデザイナーだが、依頼がこなくても日常的に筆を動かしているのが絵描きだ。依頼が来てはじめて書きはじめるのはライターだが、詩人や小説家は?

現代朗読協会の体験ワークショップには、そのように生活の中心に「仕事」ではなく、「表現」を持ちこみたいという潜在的な願望を持った人たちがやってきた。現代朗読の考え方に共感した人はそのまま正会員(ゼミ生)として残り、互いに切磋琢磨していった。

朗読で対価を得ることをめざさないゼミ生が増えるにつれ、協会の空気そのものが大きく変わっていった。それまでの「仕事」に生かすための「技術」とか「表現力」を身につけることを目的に「対価を支払っただけの見返り」を求めて来ていた人たちが急に来なくなっていった。

声の仕事者向けではなく一般向けに体験ワークショップをスタートしておよそ半年から一年で、ゼミ生の顔ぶれはほぼ完全に入れ替わってしまった。そしてこのことが現代朗読協会の現在の内容と進むべき方向性を決定づけたといえる。それは大変画期的なことだった。

そして幸福なことでもあった。ここでいう「幸福」とは、次のような意味である。本来、表現の世界には「競争」や「評価」や「価値判断」や「上下関係」はない。と書くと「そうではないだろう」という反論が多く出るだろうが、反論は古い価値観から出ていることを認識したい。

芸術や表現の人間の歴史は、東西を問わず、一貫して「芸術家や作品の優位性を高める」歴史であった。芸術家のパフォーマンスや作品が、余人の追従を許さない緻密で高技術なものであればあるほど、それは利用価値の高いものになる。なんに利用されたのか?

芸術家が裕福になることはもちろんだが、それ以上に国家や宗教家、資本家といった社会システムの上層にいる人々に利用されたのだ。中世以前は宗教と貴族に。ルネッサンス以降は商人など富裕層に。産業革命以降は資本家と全体主義国家に。それが19世紀まで続いていた。

芸術家たちは宗教や貴族や国家や金持ちの庇護を受け、生活を保障されるかわりに、その作品やパフォーマンスを権力誇示のために利用されていた。ダ・ヴィンチはもちろん、バッハやモーツァルトですら、教会や貴族の庇護がなければ作品を生み出せなかったのだ。

芸術表現をおこなう者は、ながらく、特権階級の一部に属していた(特権階級そのものではない)。そして彼らが切磋琢磨する目的は、みずからの表現技術をだれにも及ばないような高度なものに磨き上げ、余人の追従を許さないような高みをめざすことであった。

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2010年7月28日水曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.26

それとおなじことが、「表現」という人間関係の枠組みでもいえる。「私はこれだけのパフォーマンスをあなたに対しておこなった。ついては、これだけの対価をお願いしたい」という要求がうまくいくだろうか。うまくいくとしたら、限定的なパフォーマンスについてのみである。

観客に自分の技術を見せつけ、優位性を誇示するようなパフォーマンス。これについては、技術力であるとか優位性を数値的に明示することが可能なので、それを「対価」という金銭価値に置き換えることはできる。が、現代芸術表現では「共感」や「関係性」がキーワードだ。

なので、パフォーマンス自体に価値判断をつけることはしない。それより、共感や関係性を作るための「場」を成立させるための「経費」として入場料をお願いする、という考え方だ。現代朗読協会のゼミやワークショップでも、同様の考え方が徐々に導入されていった。

体験ワークショップにやってきた多くが、ごく一般の人や、朗読を仕事としては考えていない人たちだった。たとえば、若いころ演劇や音楽をやっていたけれど、子育てや仕事に終われ自分を表現することから離れていた。あらためて表現してみたくなった、という人。

あるいはカルチャーセンターなどの朗読教室に通っていたが、なにか物足りなくて現代朗読協会のホームページを見てやってきた、という人。また、YouTubeで公開しているライブ映像を見て参加したくなった、という人。多くの人が朗読行為を収入源とは考えていない。

あるいはカルチャーセンターなどの朗読教室に通っていたが、なにか物足りなくて現代朗読協会のホームページを見てやってきた、という人。また、YouTubeで公開しているライブ映像を見て参加したくなった、という人。多くの人が朗読行為を収入源とは考えていない。

そういう人たちのことを、私は「朗読家」と呼ぶ。朗読することが生活の中心になっている人のこと。重ねて述べるが、朗読することで「収入を得てそれで生活する」人のことではない。歌を歌う、詩や小説を書く、絵を描く、踊る、そういう表現が生活の中心になっている人だ。

主婦の朗読家がいる。子育て中のお母さん朗読家がいる。サラリーマン朗読家がいる。学生朗読家がいる。自営業朗読家もいる。彼らは生活の糧を仕事で確保しながら、自分自身を朗読で表現することが毎日の中心になっており、またそのことで自分を高めようとしている。

これは朗読に限らないことだが、表現を生活の中心として意識しはじめた人は生活そのものが一変する。人や自分自身の観察、コミュニケーションの内容、日々の気づき、身体と精神のメンテナンス、読書をはじめとするさまざまな勉強、そういったことが生活の中に入ってくる。

よく朗読とナレーションの違いってなんですか、と訊かれることがある。行為機能の違いはもちろんあるのだが、それとは別に、行為に向かう気構えが違っていることを見るとわかりやすい。たとえばナレーターは仕事の依頼が来てはじめて文章を読むが、朗読家はそうではない。

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2010年7月27日火曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.25

それらは「放送技術」を根拠としているのだ。朗読は一部著者による、とくに詩人らによるものを除けば、戦後はほとんどが放送やメディア関係者によるものだ。アナウンサーやナレーター、声優、役者といった人が、ラジオ、テレビ、映画といったメディアを利用してきた。

また、メディアを離れて、朗読会を実演することも多くなってきたが、その場合もやはり放送技術の延長線上にある表現がほとんどだ。つまり、「正しい日本語」の
イントネーション/発音/発声といったようなことが重視される。また、テキストの一言一句を伝えようとする。

そこでは個人的表現よりも、「正しい技術」や「読み方」が重視される。よって、自分も朗読をやってみたいと思う人は、まずそこから習得が始まることになる。技術は金銭と「等価交換」で「売る」ことができるので、教室や学校は技術を「売る」ことで経営が成り立つ。

現代朗読協会では、なにかを「等価交換」するということをしていない。つまり、支払われた金銭に対して、それと同等のたとえば「技術」を手渡すという考え方をしていない。その考え方は、消費経済においては有効かもしれないが、人のつながりにおいてはおかしい考え方だ。

たとえば、だれかが歌を歌いたいと思う。それはたぶん、自分の気持ちを歌で表現したい、それをだれかに伝えたいというニーズが働いていることがあるだろう。そのときに、彼はお金のことを考えるだろうか。歌いたいから歌うのであって、経済は関係のない事象だ。

朗読もおなじで、だれかになにかを読んで聴かせたいと思うとき、それは経済行為とは関係のない動機だ。しかし、歌や音楽もそうであるように、なにかを発表したいというとき、現代社会においてはかならず「場」のことを考えなければならず、またそこには場の経済がある。

表現の場を成立するためにいくばくかの金銭が必要であることは事実である。現代朗読協会では「場」のための経済は無視するわけにはいかないと考えている。が、よくあるように、パフォーマンス自体を「等価交換」という経済行為に組み入れることはしない。

パフォーマンス自体を等価交換システムに組み入れたとき、そこにはとても貧しい現象が起こる。わかりやすい例をあげれば、たとえば3,000円の料金を設定した公演があるとする。するとパフォーマーは「客から3,000円という金銭をいただく」という事実にとらわれる。

3,000円をいただいた以上、3,000円に見合うだけの満足を持って帰ってもらいたい、というふうに考える。その考え方は商品経済においては有効だが、人間関係においてはどうだろう。たとえば親子関係や夫婦関係、あるいは地域コミュニティにおける関係においては。

人間関係に「等価交換」という考え方を持ちこむとうまくいかないことが多いのは、だれもが経験的に知っているだろう。たとえば親子であれば、親が子に注ぐ愛情について見返りを求めればうまくいかなくなることは、だれもが知っている。夫婦の関係においても同じことだ。

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2010年7月26日月曜日

「特殊相対性の女」を書きながら考えたこと

9月19日に下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて上演する朗読・演劇・音楽公演「特殊相対性の女」のシナリオが完成した。
よく、なにかを書き上げたり、上演したりすると、
「テーマはなんですか?」
と聞かれるが、そんなものはない。テーマをひとことでいえるようなものなら、それはそのままいうだろう。わざわざ何日もかけて長いテキストを書いたりしない。
テーマは無意識のなかにある。だから私は自分の無意識を信じて、可能なかぎり無意識から浮かびあがってくる泡沫をつかまえて言語化するだけだ。
そしてこのようなシナリオの場合、書きあげたからといって完成したわけではもちろんない。文字で書かれたものを、役者や朗読者が演じたり読みあげて空間のなかで実体化することで、時間軸にそった「表現」という作品になる。そのなかに立ちあらわれる「テーマ」は観客を含め全員が予測不能のものだ。なにしろ、それは全員で作るもので、やってみなければどうなるかわからないものだからだ。

「特殊相対性の女」を書きながら考えていたのは、テキストの音声化/実体化についてだった。
私は小説家として最初から「文字」として読まれることが最終形態であるテキストを書いてきた。と同時に、ラジオや朗読においては、「音声化」を前提としたテキストも書いてきた。それら二種類のテキストを書くとき、自分の身体つきが微妙に違っていることに気がついていた。
今回、それを一致させてみたいと思った。
最初にそれを意識したのは、名古屋の劇団クセックのために脚本を書いたときだった。『エロイヒムの声』というタイトルの劇だったが、まず脚本の形式をとらなかった。改行もないひとつながりの文章がただ長々と書きつけられているだけだ。演出の神宮寺啓はそれを解体し、脚本として再構成した。
次に意識したのは、榊原忠美との朗読パフォーマンスのために書きおろした「初恋」というテキストを書いたときだった。
最近では、やはり榊原とのパフォーマンスのための「沈黙の朗読 記憶が光速を超えるとき」もそうだった。
黙読されること、音読されること、演じられること、それらのいずれとしても成立するものを書くこと。そうすることでテキストを生み出すための自分の身体つき/姿勢を統一しようと考えた。
ひょっとして、現在我々が活字の形で親しんでいる文芸小説というのは、音声化/実体化されてはじめて完成される途中経過の形態なのではないか、などと考えたりもした。
もちろん、そんな分類はどうでもいいのだ。とにかく、テキストが「表現」となる場所は、読者の頭のなかであったり、ライブハウスであったり、ホールであったり、あるいは公演や家の居間であったりする。また、そのテキストとの共演者として役者や朗読者がいたり、ときには演奏者がいたり、そしてオーディエンスがいたりする。それらが一体となってひとつの表現が生まれる。
表現とはそういう動的なものなのではないか。
そんなことを考えながら「特殊相対性の女」を書いていたのだった。
9月19日には役者の石村みかと朗読者の野々宮卯妙、そして私自身のピアノ演奏、三木義一の映像がセッションをおこない、それに〈Com.Cafe 音倉〉という店とオーディエンスが一体となってなにかが生まれることになっている。
テーマがあるとすれば、その空間と時間そのものだ。
楽しみでしかたがない。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.24

マーシャル・ローゼンバーグは心理学者だが、彼は世界の偉人たち、とくに非暴力で歴史的な業績を残して人々について調べた。マハトマ・ガンジー、ルーサー・キング、マザー・テレサといった人物が、難局にあっても冷静さを失わず、非暴力でことにあたっていたその心理。

これらをつぶさに調べたところ、ある共通の原理があることをつきとめたのだ。そのことを NVC として体系化し、提唱しているのが、マーシャル・ローゼンバーグである。世界中に共鳴者がいて、日本にも少しずつだが紹介されはじめている。安納ケンはその勉強もしていた。

あるときを期に、アレクサンダー講座の後の時間を利用して NVC の私的勉強会が、安納ケンのリードで始まった。私はその考え方に共感し、また朗読という表現行為そのものはまさに NVC そのものではないかと思いいたるようになった。協会の運営方法にも取りいれた。

ディープリスニング、アレクサンダー・テクニーク、NVC、そしてコンテンポラリーアートや現代思想の勉強。こういったものによって現代朗読協会はずいぶんと体質が変わった。来る人もどんどん変わっていった。その顕著なきっかけは体験ワークショップのスタートだった。

アイ文庫時代の朗読研究会や、スタート時の現代朗読協会の朗読ワークショップには、朗読を勉強したいという「プロ」の方がたくさん来ていた。つまり、声優、アナウンサー、ナレーター、またはそれらの卵といった、いわゆる「声のお仕事」の方たちである。

彼ら/彼女らは当然のことながら、自分の仕事に役立てようとして朗読を学びに来る。日本語の発音・発声、アナウンスやナレーション技術を教える学校はたくさんあるが、朗読を教えるところはあまりない。おおぜいが表現力をつけるために朗読を勉強しにやってきた。

彼ら/彼女らからは実に多くのことを学んだし、気づいたことも多かった。しかし、彼らが求めているのは間違いなく、支払った一定の対価に見合っただけの「技術」なり仕事に役に立つものを持ち帰ることだった。それは当然のことで、そのことを非難しているわけではない。

しかし、そういった「等価交換」を求める場から、現代朗読協会は徐々に変容していったのだ。体験ワークショップは「声のお仕事」の方ではなく、むしろ朗読などやったこともない一般の人を対象にしていた。あるいは、従来型の朗読に飽き足らない人に向けて開催された。

体験にやってきた人はほとんどが、私たちのやり方に驚く。自己表現について「こんな考え方があったのか」と。あるいは朗読経験者は「朗読がこんなに自由で楽しいものだったのか」と。私たちは他の朗読講座や教室でやっていることとはまったく違うアプローチを使っている。

たいていの講座や教室は、まず朗読者の「間違い」を正すところからスタートする。イントネーションの間違い、鼻濁音やら無声化といった日本語発音技術の間違い、そして読み方の間違い。これらの根拠がどこから来ているのかと考えてみた。それははっきりしていた。

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2010年7月25日日曜日

第一回NVC読書会『教育による平和実現の手法』

を〈NVC@羽根木の家〉のほうに書きこみました。
⇒ こちら

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.23

朗読という言語を使った表現が、非言語コミュニケーションを成立させているところがおもしろいのだ。私はその観察を裏付けるために、このところ著しく発展してきている生理学や、最新の脳科学、心理学などを勉強していった。すると、興味深いものに行き当たった。

それは「ミラーニューロン」と呼ばれるもので、1996年にイタリアのジャコーモ・リッツォラッティらによって発見された。ごく一部の霊長類をのぞいてヒト特有の神経で、ものまね神経とも呼ばれている。言語を獲得することや、他人と共感することに重要な働きがある。

多くの解説書が日本語でも出ているので、興味のある人は読んでみてほしい。それを読めばわかることだが、朗読という行為においても人はお互いの共感、理解という働きでミラーニューロンが働いている。つまり、伝わるのは文章だけではなく、身体のありようそのものなのだ。

このようなアプローチで朗読をコミュニケーション行為としてとらえた朗読講座は、少なくとも私は知らなかったし、いまも知らない。朗読の身体性とコミュニケーションの両方に注意を払った結果、現代朗読協会にはあらたな講座が生まれた。

身体の運用方法について論理的かつユニークな観点から実用的な面を持つアレクサンダー・テクニーク講座だ。講師は安納ケン。彼は朗読とはなんの関係もなかったが、私が童謡や唱歌をさまざまにアレンジした曲を発表している音楽ユニットうふの相方・伊藤さやかの知己だった。

安納ケンは勉強家であり、朗読はしないがミュージカルに出たり歌を歌ったりする彼は、自分でも身体運用の勉強をしていて、アレクサンダー・テクニークに出会ったのだった。これはまだ日本にはあまり普及しておらず、正規講師として外国人が来ることが多かった。

安納ケンは英語が堪能で、同時通訳もできる。そこでアレクサンダーの講師がアメリカやイギリスから来るとき、ワークショップの通訳につきながら自分も勉強を続けていた。そして、彼が現代朗読協会に来るようになったちょうどそのころ、正規インストラクターの資格を取った。

彼は最初の自分の講座を現代朗読協会で開催してくれた。以来、彼のアレクサンダー・テクニーク講座は不定期にいまでも続いている。私も習った。最初はなかなか理解し、実践するのが難しかったが、気がついたらアレクサンダー抜きの生活など考えられないほどになっている。

アレクサンダーはもちろん朗読にも応用できる。最初の開発者のアレクサンダー氏は、そもそもオーストラリア出身の朗唱家だったのだ。かなり有用な技術なので、欧米の演劇学校や音楽学校ではかなりのところが必須科目として導入している。日本ではまだ知られていないが。

勉強家の安納ケンは、もうひとつ、重要なものを現代朗読協会にもたらしてくれた。それが NVC だった。NVC とは「Nonviolent Communication」「非暴力コミュニケーション」のことだ。これはアメリカのマーシャル・ローゼンバーグが提唱している考え方だ。

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2010年7月24日土曜日

Ustream番組「UBunko」現代朗読体験ワークショップの模様

2010年5月におこなわれた体験ワークショップの模様の一部をお送りします。
現代朗読というものの考え方や表現へのアプローチ方法、現代朗読協会ではどのようなことがおこなわれているか、のごく一部ではありますが、かいま見ることができるかと思います。

体験ワークショップは現在、休止中ですが、ゼミなどはどなたも自由に見学できます。また、毎月2回の中野ピグノーズ「げろきょでないと」ライブへの飛び入り出演も歓迎です。

放送はあさって7月26日(月)午後8時より。
視聴はこちらから。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.22

人は感覚のひとつを遮断されると(この場合は視覚)、ほかの感覚が遮断された感覚を補おうとして鋭くなる。視覚を遮断されれば、聴覚、嗅覚、触覚、味覚が急速に立ちあがってきて、普段は味わえない鋭敏な感覚を味わうことができる。このときに音を聴かせるとおもしろい。

視覚を遮断されているはずなのにイメージが脳内に広がったりする。普段は聴こえないような微細な音が聴こえたりする。そして自分の身体感覚が非常に敏感になり、「現在」の自分の「存在」をリアルに感じることができる。一種に瞑想体験ともいえよう。座禅に似た効果がある。

デープリスニングを体験したあと、朗読をしてもらうと、どの人も読みがガラッと変わって、聴いている人も読んでいる本人もびっくりする。つまり、自分の身体や声そのものにセンシティブになり、フィードバックが多くなった結果、非常に注意深い読みを行なうようになるのだ。

ディープリスニングそのものは私の発明でもなんでもなく、心理学・生理学的には「感覚遮断」と呼ばれていて、欧米のアーティストではその方法をワークショップなどを通じて広めようとしている人が多くいる。ポーリン・オリヴェロスもそのひとりだ。

彼女には『ソニック・メディテーション』という著書があり、ディープリスニングの手法を使ったワークショップを世界各地でおこなっている。もともとは音楽家なのだが、「聴く」ことの重要性と、音楽家という特権を一般の人々に開放する運動をおこなっている。

彼女に限らず、アーティストの特権性に疑問を投げかけ大衆に芸術表現の権利を取りもどそうという動きは強まっている。私もそういった考えに共感し、たとえば朗読をアナウンサーや声優やナレーターや朗読家といった特権階級的な人々から、一般人に取りもどせないかと考えた。

とくに朗読という表現行為は、だれもがすぐにでも始められる敷居の低さがあるので、芸術表現の特権的なイメージを払拭するには最適だ。ディープリスニングのほかにも、現代アートの手法を取りいれたひとつに、表現はコミュニケーションである、という考え方がある。

朗読はコミュニケーションである、というと、最初はだれもが怪訝な顔をする。実際、現代朗読協会でもそうだった。朗読というと、文章を読んで人に伝える行為であり、一方通行のイメージがある。しかし、よく観察すると、それは間違っていることがすぐにわかる。

読む人と読まれる人をよく観察してみる。すると、読む人はただ口を動かして言葉を発しているだけではなく、表情、息使い、そして身体の状態が刻一刻と変化していることがわかる。その変化は聴いている人に伝わり、聴いている人もまるで鏡像のように状態が変化する。

聴く人の身体状況の変化は、当然のことながら、読む人へも逆流して伝わっている。読む人がその入力を拒否せずに受け入れれば、そこにはかなり濃密なコミュニケーションが生まれる。それは非言語的なコミュニケーションでもあるところがおもしろい。

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2010年7月23日金曜日

Ustream番組「UBunko」名古屋アクテノン野外ステージライブ

2010年7月10日の夕刻、名古屋演劇練習場〈アクテノン〉の野外ステージにて、ウェルバ・アクトゥスのワークショップ参加メンバーがおこなったミニライブ「Kenji V」と「祈る人」の模様の録画をお送りします。

放送は本日7月23日(水)午後8時より。
視聴はこちらから。

もうやめようよ、成長経済原則

北米フロリダ沖のBP海底油田事故のことは、日本ではあまり詳細な情報が入ってこないが、大変なことになっているようだ。
フロリダ半島からメキシコ湾岸の海洋生物は死滅するだろうといわれているし、現にすでに死滅した生物もいる。この被害はさらに拡大し、メキシコ湾流に沿っ沿岸全体が危ないといわれている。すなわち、合衆国の東海岸、カナダの東海岸、北大西洋全域にかけてだ。
たった一か所の事故でこれほどの被害がもたらされてしまうのは、まったく異種の災害だが、宮崎の口蹄疫のことを連想する。
ともに効率を求め、経済成長を追求するあまり、単一原因で被害が極端に広がってしまうという意味では、似ていないか。
この種の災害は、我々が経済効率と成長を求めつづけるかぎり、なくならないどころか、さらに拡大しつづけるだろう。
これを食いとめるには、我々が効率追求をやめ、いますでにあるリソースでなんとかやっていく社会と生活スタイルに変えていくしかない。経済が後退しても、みんなが幸せにやっていく方法はいくらでもある。
しかし、それをうたうと、資本家や経済ピラミッドのてっぺんにいる一部の特権階級が困るので、政治もそちらに舵を取れないだけの話だ。

石油を燃やして行ったり来たりするのはもうやめたい。
石油や放射性物質をたいて作った電気を大量に使うのはもうやめたい。
工場で作られた食べものを口に入れるのはもうやめたい。
発展途上国の資源と労働力の犠牲の上に成り立っている大量生産品を買うのはもうやめたい。
穀物を与えて効率よく太らせた家畜を食べるのはもうやめたい。
贅沢ばかり追求してみんな本当に幸せになれただろうか。
人と共感を共有し、本当の意味でおだやかで幸せな社会を作るには、成長経済原則はなんの役にも立たない。

「音楽電車」作:水城ゆう/朗読:窪田涼子




2010年7月某日、Ustream放送「UBunko」で放送したライブの模様を、朗読部分だけ抜きだしました。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.21

それはそのとおりなのだ。ワークショップなので最初にみんなに同じテキスト『坊っちゃん』の冒頭部分のプリントを渡して、一度ならず読み合わせをした後だからだ。「そ、そうですね」「あなたはすでに知っている話をこの人たちが聴いて楽しんでくれると思ってるわけね?」

ようやく彼は思い直しはじめる。「話の内容ではなく、ぼくがどういうふうに読んだか、伝えたいんですかね」「そうなの?」「そ、そうです」「だよね。あなたは自分がこの物語をどのように読んだのか、どんなふうに自分はおもしろかったのかを伝えたいんだよね?」

彼はようやく自分がやろうとしていたことに思いいたる。「つまりあなたは、自分自身を伝えたかったんじゃないの?」そこまで問答を続けて、初めて彼は自分がなにをしたかったのかわかるのだ。たいていの人がこのような経緯をたどることを、私は発見した。

これまで1000人近い(ひょっとして1000人を超える)朗読者と個人的に面談をしてきて、経験的にいえることは、朗読者はほとんどの人が自分に嘘をつく傾向がある、ということだ。これは朗読者に限ることではないかもしれない。人は自分に嘘をつく傾向があるといえる。

朗読をする多くの人が、自分に嘘をつく。すなわち、なんのために朗読をするかというと、本の内容を伝えたいとか、作者の意図を汲みたいとか、文章に寄り添うように読みたいとか、きれいな言葉をつらねる。しかし、自分の本当のニーズは、それではない。追求すればわかる。

結局のところ、人は自分自身を表現したいのであり、だれかに自分のことを伝えたいのだ。自分に共感を持ってもらい、つながりを確認したい。そのことが根源にあっての表現行為である。そこを認めることができなければ、すべての表現行為はきれいごとに終わってしまう。

こういう表現の原理はすでに発見されていたものだった。コンテンポラリーアートの世界ではごく普通に考えられていた原理だ。が、日本の朗読界においては、この考え方がほとんど導入されていなかった。そもそも朗読をコンテンポラリーアートの一種と考える人がいなかった。

朗読にもコンテンポラリーアートの思想を導入できないか。それが私の考えたことだった。実際それはそんなにおかしな考えではなかった。ドイツでは100年近く前に「ダダ」という表現主義の運動において朗読にも前衛的な方法が適用されていて、それはいまだに生きている。

このように商業主義とは切りはなされた形で現代朗読協会がスタートすることになった。スタジオは酒屋の地下から、やはり豪徳寺の地下にあった音楽スタジオという絶好の環境に移ることになった。ドルチェスタジオという名前のそこで、さまざまな試みが実行に移された。

思いだすままに述べてみる。酒屋の地下でスタートしたことだが、「ディープリスニング」という試みが何度も実行された。これは、地下スタジオという環境を利用したトライアルで、完全に光を遮断した環境のなかで音を聴いてもらうという、一種の感覚遮断のテストだった。

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2010年7月22日木曜日

「身体のなかを蝶が飛ぶ」作:水城ゆう/朗読:窪田涼子


2010年7月某日、Ustream放送「UBunko」で放送したライブの模様を、朗読部分だけ抜きだしました。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.20

豪徳寺の地下スタジオで稽古が重ねられ、2006年3月に港区の麻布区民センターで上演にこぎつけることができた。旗揚げ公演は成功し、私はそれまでにつちかってきた朗読の方法論に確信を得ることができた。これはあえて「現代朗読」と名付けた表現方法である。

ただの「朗読」と「現代朗読」とはなにが違うのか。独自に朗読研究をはじめてわかったのだが、ただの朗読(仮に従来朗読としておく)は本に書かれている内容をリスナーに伝えることに主眼が置かれている。ストーリーや作者の意図を最重要と考えて、それに沿った表現をする。

朗読者はあくまでストーリーや作者の意図を伝えるための「媒介者」であり、それ以上に自己主張することを嫌う傾向が多かった。が、私が思ったのは「ストーリーや作者の意図を伝える目的」だけならば、本をそのまま渡して読んでもらえばいいではないか、ということだった。

目の不自由な方のために本を代読する「音訳ボランティア」という仕事がある。詳しくうかがったことがあるのだが、読み手はなるべく感情を入れずに淡々と読むことが求められる。読み手の表現を入れることでテキストに特定のバイアスがかかってしまうのを避けるためだ。

コンピューターでテキストを読みあげるソフトも登場しはじめていた。これだと人の労力を使うことなく、しかもバイアス抜きの音訳ができる。しかし、当時はまだまだ未発達で、ソフトも高く、また活字印刷された本をスキャナで読みこみ、OCRでテキスト化する必要があった。

OCRソフトの精度がまだまだ低く、人の手で原文と突き合わせて修正していく作業がどうしても必要になる。結局、かかる労力はおなじかそれ以上になってしまうというわけで、まだまだボランティアによる音訳が多かったし、いまも多い。この音訳と朗読とどう違うのか。

本の内容や作者の意図を聴き手に伝えるという目的だと、朗読は音訳と区別できない。音訳は可能ならば機械音訳に取って代わればいいという話であって、便宜上いまは人間がやっている。では、人が文章を読みあげてだれかに伝えるという行為はどういう目的に基づいているのか。

私は開催するワークショップにおいて、朗読する人のニーズと意識についてつぶさな検証をおこなってみた。たとえば、漱石の『坊っちゃん』をワークショップの参加者のひとりに、やはり参加者たちに向かって朗読してもらう。「親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかり……」

そのとき、すかさず私は質問してみる。「あなたはいま、みなさんに向かってなにをしようとしている?」ほとんどの人は『坊っちゃん』というストーリーをみなさんに伝えようとして読んでいる、と答える。さらに私は問う。「なんのために?」「物語を楽しんでもらうために」

「ではあなたは自分が『坊っちゃん』を朗読すれば、ここにいる皆さんが楽しんでくれると思っているわけね?」するとたいていの人は困った顔になり「まあ、そうですかね」と言葉を濁しはじめる。私は意地悪く追い打ちをかける。「だけどここにいる人は話の内容を知ってるよ」

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2010年7月21日水曜日

「伝えるのはなにかということ、とか」by ののみや(再掲載)

以前、こちらに up しておきながら、ファイル整理をしているときうっかり間違って削除してしまったので、再掲します。
一度読んだ方はすみません。また、コメントをいただいた方もすみません。

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朗読者の野々宮卯妙が現代朗読の真髄に触れる考え方をうまくまとめて書いてくれていたので、彼女のmixi日記から引用させていただく。
この内容に関してのご質問は私も受け付けます。
ただし、きちんと一字一句、深く読んでください。さっと読みとばしてのコメントには返信しかねます。

(引用ここから)
自分を伝えるとか気持ちを伝えるとかいいますが……
自分では感情をたっぷりこめて読んだつもりなのに、苦笑されたりとか(^^;)
いったいどうすればいいのか、と悩みませんか?
だって、日常でも、伝えたいことがちゃんと伝わることって、少ないですよね。
一所懸命話してるのに、誤解されることは多々あるし、
それをフォローしようとしてますますドツボにはまったりします。
それを、朗読なら伝えられる、というのはどういうことなのか。

朗読では、ついつい、声優さんのように「怒ってるように」「悲しんでるみたいに」読みたくなると思いますが、
聞き手の心理としては、まず、引きます(^^;)。怒りなどは、まさにどん引きです(^^;)。
それだけでなく、そういった「~ような」読みは、何も伝えていません。
声優さんがそれで成り立つのは、アニメや映画などの映像があるからです。
また、彼らの仕事は、自分を伝えることではありません。
声優さんの声優的『朗読』は、聞いてる人に、その人がやった(アニメや映画の)役柄が読んでいると想像させたり、アニメの映像を想像させたりする、そこがおもしろいし魅力であって、その(役をやった)声優さんにしかできないことです。
私たちがそういう読みをするときは、相手に或るアニメやキャラを連想させて楽しませるとか、
アニメや漫画を見て楽しいと思う感覚を聞き手に思い出させて楽しい気持ちを再現させるとか、
そういう効果であって、それは朗読と言うより芸とでも言ったほうがいいものに変質しています。
「声優的」な朗読で、聞き手が「感動した」というとき、それはその人がアニメや漫画や映画で感動したときの気持ちを再現したということであって、その声優さんの存在を感じたということでは決してないはずです。
(もちろん、声優という職業の人が声優的ではない朗読をすることもあり、そのときはその人自身を伝えていることでしょう。ここではあくまで声優的、キャラ的『朗読』を指します)

さて、朗読とはその人自身を伝えること、と私たちは言っていますが、
その、「自分の存在を伝える」とは、どういうことでしょうか。

注意してほしいのは、自分の存在を伝えるというのは、
「私が私が!」ということ(自己主張や狭義の自己表現)ではない、ということです。
(どうも勘違いされがちなのですが)
実存を超えて無意識下まで含む「自分」、自分でさえもしかすると意識していない自分かもしれません。
社会性やら建前やら嫉妬心やらなにやらいろいろまとった自分(自我といってもいいかも?)ではなく、
その下の方に隠されている、ピュアな自分です。
それは、自分で恣意的に表そうとしたら、どうしても歪んでしまうものです。←重要
だから(他人の)テキストを使います。

そういう自然な身体性で読めるようになったとき、
何が聞こえてくるのか……
(たとえば)怒っている自分の身体が何を伝えているのか。
自分でも気づいてないかもしれないピュアな自分を、聞き手が感じとったとき、
聞き手の心は震え、それを鏡のように受けて自分もまた心が震える、
(いろんな震え方があります、涙だけではありません)
それが「コミュニケーション」なんですね。

つまり、伝えるために朗読するけれど、伝わるのは結果であって、
伝えようとして伝えるものでもない……
恣意(的な表現)を排除する必要がある(水城さんはよく「無意識に仕事をさせる」と言います)。
自分と言う主体があるかぎり、そこが難しいんですけれどね。
現代朗読のゼミやワークショップなどでは、水城さんがさまざまなエチュードを通じて引き出してくれますが……
本人、自覚がないままだったりすることもあり。
(でも、見てる人にはわかるところがおもしろい)

(中略)

ちなみに、素の声が、ふだんの話声と違う人はけっこういます。
話声って、相手によって使い分けてます、無意識に。
そういうところも難しい(笑)。声ってけっこう怖いものです……(笑)。
(引用ここまで)

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.19

アイ文庫の朗読研究会では、だれからも影響も教えも受けず、純粋に自分たの試行錯誤だけで「朗読とはなにか」について考えと実践を深めていった。その過程で、より深い表現力を身につけるためには「ライブ」が有効だ、ということがわかってきた。

研究会でも、実は自主的に何度かライブイベントを開催していたのだ。豪徳寺の酒屋の地下スタジオはかなり広く、30人くらいのキャパのライブは楽にやれたのだ。そこでいくつかのライブをやっていた。怪談やら短いものを集めた企画もののライブなどだ。

また、実際にお客さんを集めてのライブは手間がかかるというので、ネットライブもやることになった。livedoorのねとらじ担当者と知り合いになったので、専用チャンネルをひとつもらった。このライブ活動がみんなの力になり、また私自身の朗読に対する考えを深めた。

ネットライブは月に1、2回のペースで頻繁におこなった。そのつどテーマを設定し、出演者たちにはそのための演出研究会に出てもらった。この時期から、朗読研究会をアイ文庫という営利企業(といってもほとんど利益はなく借金ばかりだったが)から独立させる機運が出た。

あてにしていたオーディオブックコンテンツがあまりにお金にならない、ということもあった。どうせ朗読がお金にならないのなら、いっそ営利をめざすのではなく、社会的な活動として自由におこなっていけないか、と考えたのである。NPO法人というものがあった。

特定非営利活動法人といって、調べてみると、非営利目的ではあるが活動に必要な資金を稼いではいけないということではないようだった。実際にNPO法人でかなり稼いでいる団体もあるようだった。NPO法人は自治体からの認可が必要なのだが、申請が面倒だった。

とにかく、書式が決まった書類を何種類も準備しなければならず、苦労して書いて提出しても、「、」や「。」一個違っているだけで突き返されたりする。わかってしまえばどうってことはないのだが、なにしろ初めての申請作業だ。そういうことを手伝ってくれるNPOがある。

NPO法人を申請するための書類を作ってくれるNPO法人なのだが、その手数料がばか高いのだ。お金がある団体や忙しい人はそういうところを利用して難なく許認可を取ってしまうのだろうが、我々はばか高い手数料を払う余裕はなかった。だから自分たちで苦労して申請した。

こうやってなんとか東京都から認可がおり、2006年3月に特定非営利活動法人現代朗読協会が誕生した。このときに劇団みたいに旗揚げ公演をやることになった。演目は「おくのほそ道異聞」で、芭蕉の「おくのほそ道」を下敷きにした群読パフォーマンスだった。

朗読研究会から現代朗読協会の正会員になったメンバーを中心に、ゲストに古くからの共演者・榊原忠美や、彼が所属する劇団にいた水谷友子を迎えた。また、音楽陣として盲目のサックス奏者・ウォルフィーと歌手の伊藤さやかも入れた。私もピアノ演奏で出演した。

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2010年7月20日火曜日

パフォーマーがナイーブであることと図太くあること

今日は午後からふたりだけの朗読ゼミ。豊津さんとシマムラのふたり。ひさしぶりに梅丘のプラムハウスのほうに来てもらう。豊津さんがタルトケーキを差し入れてくれたので、コーヒーをいれておいしくいただく。
ゼミというよりお茶会のような雰囲気で。

このなかで出た話で、先日の「いちめんの菜の花に私はなりたい」の演目のなかで、ひとりが小さな失敗をしたことについて触れる。
失敗といっても、ほんのささいな段取りのミスで、当然パフォーマンス自体には影響はまったくなかったし、そもそもそういうハプニングが起こらないライブなど皆無といっていい。また、ハプニングが起こることでパフォーマンスのクオリティがあがることはよくあることだし、またそのようにハプニングを利用できるパフォーマーでありたいというのが、現在げろきょでやっていることだといってもいい。
だれもがそのような傾向を持っていて、もちろん私もそうなのだが、失敗をするとつい自分を責めてしまうことがある。これは神経質とか図太いという話ではなくて、価値判断の基準を自分の外側に置いてしまう後天的な「癖」によって起こることだ。仲間に悪いことをしたと自分を責めるのではなく、ミスを「学び」の材料としてとらえれば、より成長するステップとなる。

それとは別に、パフォーマーとはひと前で表現する人のことである。
経験の浅いパフォーマーにとってとても危険なのが、パフォーマンスを見た人から届く時には心ない「批判」的発言である。
実際に経験したことがある方はよくわかると思うが、これはとてもこたえる。時にはそのことで、優秀なパフォーマーの卵がつぶれてしまうことすらある。
私のような図太い人間はなにをいわれてもいまや気にもしないし、またそのような発言をするオーディエンスは「共感的表現」をめざしている私たちとは異なった地平に生きている人なのだと理解しスルーするだけなのだが、まだ経験の浅いパフォーマーには個人的趣向の価値にもとづいた勝手な「判断」を含む「批判的発言」は、とても毒になる。
かつてはものを書く人間も、パフォーマンスをする人間も、出版社やメディアなどのファルターに守られ個人的攻撃を直接受けることは少なかったのだが、いまはネット時代で批判が直接個人に届く時代である。
共感を持たない無自覚な発言が、どれだけ優秀なパフォーマーの芽を詰んでしまっているのか考えると、ちょっといたたまれない気分になる。
少なくとも、現代朗読協会のパフォーマーたちについては、私は全力で守ってやりたいと思う。

水城ゆう「He Never Sleeps」〜尾崎放哉自由句/朗読:野々宮卯妙

現代朗読協会は毎月第一/第三火曜日の夜、中野ピグノーズで「げろきょでないと」朗読と音楽セッションを開催しています。
6月15日におこなわれたセッションから、野々宮卯妙と水城ゆうによる演目をご紹介します。
最初は水城ゆう作「He Never Sleeps」で、最後に少しだけ尾崎放哉の自由句を読んでます。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.18

その過程で、スタートアップ時の社長だった山田氏は引退し、ニフティサーブ時代からの知り合いだったライターの西東氏に代表取締役をお願いしていた。「はなのある風景」の制作では、彼女にテキスト選定をおこなってもらい、それを声優たちに朗読してもらっていた。

その番組は半年強作られ、「はなのある風景」は20作品以上が完成した。古典を含む名作文芸作品の抜粋と、オリジナル音楽で構成された、私たちの渾身の作品である。このころには若手声優たちも大きく育ってきて、個性的な朗読ができるようになった者も出てきた。

残念ながら制作予算の都合で「はなのある風景」は半年ちょっとで打ち切りになった。BSデジタルという放送が、チャンネル乱立のなかで制作費を確保するのが難しく、それは現在にいたるも大きな問題として残っている。同時にFM番組のほうも制作が難しくなってきた。

スタートアップで目論見がはずれたアイ文庫の事業は、ラジオ制作業務へとシフトしようとしたのだが、いかんせんコミュニティFMではまったくお金にならない。営業力もなく、スポンサー獲得もままならなかった。先の連載「オーディオブックの真実」にくわしく書いた。

いろいろな経緯があり、結局、アイ文庫はオーディオブックの制作会社として細々と営業していた。2005年夏、iTunes Music Store が日本に上陸し、オーディオブックのマーケットが登場した。オーディオブック専門の制作配信会社のことのは出版と組んだ。

今度こそアイ文庫は積極的にオーディオブック制作に乗りだした。自主制作ではこれまでどおり、夏目漱石の長編小説を含む名作文学をたくさん作った。著作権処理をすませた依頼ものも作った。寺山修司、筒井康隆、陳舜臣、川端康成といった人の文芸ものが多かった。

ほかにも変わったところでは、高校の教科書、英語の本のオーディオブック化なんてこともやった。それと並行しながら、朗読研究会もますます盛んになっていった。声優やナレーターが集まってきて、それはオーディオブック目的だったのかもしれないが、研究会にも熱心だった。

研究会ではあくまで「朗読」が勉強の中心で、吹き替えやナレーションではなかった。彼女らの多くは声優学校やナレーター事務所の養成所出身で、不思議なことにそういうところでは「朗読」はほとんど教えられないのだそうだ。たまに朗読教室のようなものはあっても……

アナウンサーや声優や俳優の私塾か、カルチャーセンターで、カルチャーセンターも教えているのはアナウンサーか声優か俳優だった。教える内容も「放送技術」的なものか「演劇」の延長線上での読みを超えないものだった。「朗読」そのものを研究している場はごく少なかった。

渡辺知明さんがやっている「表現よみ」の会というのがあって、そこは私たちとは少しアプローチは違っているが、放送技術ではない「朗読」をやっている。が、そういうところはとても少ない。「朗読」とうたっていても、文章の「内容を伝える」ための読みがほとんどだ。

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2010年7月19日月曜日

生物多様性の重要性が認識されていないらしい

国連は今年を「生物多様性年」と定めているが、そのことの重要性をほとんどの人がよくわかっていないか、ぼんやりとしかわかっていないらしい。ということが、まわりの人たちと少し話してみるとわかってきた。
人といえども、多様性のない世界では生きていけないのだ。そのことを、どれほどの人が正しく認識しているのだろうか。

直近の話題では、ミツバチが激減した話。ミツバチの住めない世界に人が住めるわけがない。
いや、現に住んでいるではないか、という人がいる。コンクリートの箱に住み、鉄の箱に乗って移動し、工場で作られた食物を食べて、それで生きていると思っている人がいる。
しかし、毎日吸っている空気はどこから来る? 毎日飲んでいる水はどこから来る? 水道管から自動的に湧いてくると思っている?

東京では絶滅危惧種に指定されていたゲンゴロウやアズマギクが、ついに絶滅したと認定されたという。
口蹄疫や鳥インフルエンザが、なぜあんなに一気に蔓延し、大量の家畜を「処分」しなければならなくなってしまうのか。
F1と呼ばれる、次世代繁殖のできない、単一 DNA を持つ農産物を食べている我々もまた、なにかの疫病で一気に絶滅に向かうことがあるとしたら、生物多様性への認識をおろそかにして、自然を破壊しつづけたせいだろう。
すべては経済の成長と効率のためにおこなわれている。

もういいじゃない、そんなに成長しなくても。効率を優先しなくても。
もうすこしゆるく、のんびりと、つつましくやっていきましょうよ。人より抜きんでることより、人とゆるやかにおだやかにつながることを楽しめばいいじゃない。

2010年7月18日日曜日

羽根木ライブ「トワイライト・ストーリーズ」第三部「幽霊滝の第三夜」

2010年7月3日に現代朗読協会「羽根木の家」でおこなわれた朗読ライブ「トワイライト・ストーリーズ」の第三部。
「朗読はライブだ!」ワークショップ参加者による群読で、作品は「幽霊滝」という怪談と、夏目漱石『夢十夜』の「第三夜」をミックスして構成したものです。大変怖かったとの評判でした。
音楽演奏は水城ゆう。

ケロログ「RadioU」で配信中。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.17

私は夏目漱石の全作品をあらためて読み直してみたくなった。それもただ読むのではなく、音声化という作業を通じて綿密に、蜜月のように密着しながら、読み直したいと思ったのだ。そこで、若手声優たちに「夏目漱石全作品をオーディオブックにしようぜ」と呼びかけた。

たぶん彼らはよくわからないままに、私の呼びかけに応えてくれた。夏目漱石の長編作品の収録作業が始まった。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』この3作品から、田中尋三、相原麻理衣、神崎みゆきという3人の若手声優によって収録がスタートした。

名作文芸作品への挑戦が始まると同時に、彼らの朗読も急激に魅力を増していった。私は彼らひとりひとりの声優に、いわゆる「あてがき」という形で、ラジオ番組のコーナー「ジューシー・ジャズストーリー」のためのテキストを書いた。それは私にとっても楽しい作業だった。

結局、若手声優とともに作ったオーディオ作品(朗読と音楽の共作)は、40作品以上が残っている。音楽がジャズCDからの既成のものだったため、現在は著作権処理の問題で公開はしていないが、私が書いたショートストーリーは「水色文庫」のなかですべて紹介している。

世田谷FMを中心にコミュニティFMを何局かネットして「ジューシー・ジャズカーゴ」という番組を制作していたが、今度はJFNという全国ネットのFMラジオ制作配信会社からの制作依頼がはいってきた。私の古巣のFM福井を含む全国の地方FM局をネットする会社である。

1985年前後に全国に東京FM系列の民放FMがたくさんできた。FM福井もそのひとつで、私はそこで制作の仕事に関わったわけだが、その仕組みを作ったのがJFNという会社だ。東京FMで作った番組を地方FM局に配信するのが中心業務だが、自社制作番組もあった。

最初はホラー番組かなにかの企画の話だったと思うが、それは別会社がやることになり、アイ文庫にはBSデジタル放送の番組の話が回ってきた。当然テレビ番組なのだが、ハイビジョンの高精細を利用したスライドショーのようなものに、朗読と音楽を乗せるというものだった。

番組名は「はなのある風景」といった。この番組で、アイ文庫は初めて、音楽もオリジナルで制作するという挑戦をおこなった。番組名が表しているように、まず花の写真がある。それに花にまつわる文学作品の描写の朗読を乗せ、さらに音楽をつける。そういう作業だった。

そのころには私の住まいは、ワンルームマンションから地下スタジオに移っていた。やはり豪徳寺だったが、近所の酒屋の地下室がたまたまあいており、そこを改造して住まい兼スタジオにして移ったのだ。地下という静穏環境は、朗読にしても音楽にしても、収録には最適だった。

この地下室で、番組「はなのある風景」は制作された。毎月、60分のオリジナル番組の音声部分だけだが、作っていく。これは相当な作業量になる。そのころ、アイ文庫の経営体制もすでに変わっていた。ケータイ広告がうまくいかなかった後は、制作会社へと変わっていた。

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2010年7月17日土曜日

羽根木ライブ「トワイライト・ストーリーズ」第二部「行列」

2010年7月3日に現代朗読協会「羽根木の家」でおこなわれた朗読ライブ「トワイライト・ストーリーズ」の第二部。
ベーシックコース参加者の久保りかによる朗読で、作品は夏目漱石『永日小品』より「行列」という作品です。
音楽演奏は水城ゆう。

ケロログ「RadioU」で配信中。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.16

文芸朗読といえば、NHKのラジオの朗読番組や、新潮社が出している朗読CD(かつてはカセットテープ)が有名だった。それらの朗読を聴いてみると、読んでいるのは俳優かアナウンサーばかりだ。そして夏目漱石や芥川龍之介などの名作文学が多く読まれていた。

152 私たちも名作文学の朗読を研究することにした。これには理由があって、いずれ読めるようになったら、これを朗読作品として発表したいと思っていたからだ。著作権が消滅した古い文学作品は都合がよかった。夏目漱石や芥川龍之介などの短い作品から勉強を始めた。

夏目漱石の「変な音」「文鳥」「永日小品」、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、ほかにもいろいろなものを、とにかく短い作品を選んでやった。研究するといっても、読みこんで、修正し、とにかく完成まで持っていくのだ。完成したものはどんどんネットで発表することにした。

自主的な朗読研究会のようなものを始めてわかったのは、若手声優たちが「朗読」ができないのはけっして技術がないわけではなく、そもそも文学小説の「読み方」を知らないためだ、ということだった。これは学校教育におおいに責任がある。小説の読み方など学校では習わない。

そもそも文芸小説を読むにはいくつかのやりかたがある。一番簡単なのは、ただ読む、好きなように読む、楽しんで読む、という「読者」「消費者」としての読み方だ。たいていはこの目的のために小説は書かれている。しかし、いま私たちはこれを「表現」しようとしているのだ。

表現するために読むには、その小説がだれかによって実際に書かれた時点のことをかんがえ、書くように読みとく必要がある。ストーリー展開、文章構造を考え、視点を明確にし、シーンのスイッチングを把握する。書き手とおなじ「創造者」の地平に立たなければ表現はできない。

若手声優たちはそんなことを考えたこともなかっただろう。いや、若手声優に限らず、多くの声優/ナレーターがそんなことは考えたこともないに違いない。それはこれまで多くの声優/ナレーターに接してきた私の経験が、そのことを確信している。悪いといっているのではない。

学校教育でも専門学校でも養成所でも、そのような読み方をだれも教えていないだけの話だ。たまたま私は書き手であり、文芸テキストがどのように書かれるのかを自分の経験として知っていた。だから、だれかが書いた小説についても、書き手の目線で読み解く方法を知っていた。

それを私はただ彼らに伝えた。そして一緒に名作文学を読んでいった。その過程で私も驚いたことがある。私はひととおり名作文学を読んできたが、それはだいたい中高生のころだった。その頃の読み方は、当然ながら浅く、あらためて読みなおしてみることは有意義だった。

書き手の視点を得たいまになって読み返してみると、あらためて発見することが多かった。とくに夏目漱石という作家の偉大さには、あらためて圧倒されるような心持ちがした。100年も前に、現代小説がやっていることをすべて、あるいはそれ以上の質でやってしまっている。

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2010年7月16日金曜日

羽根木ライブ「トワイライト・ストーリーズ」第一部「卵」

先日2010年7月3日に現代朗読協会「羽根木の家」でおこなわれた朗読ライブ「トワイライト・ストーリーズ」の模様を、3回にわたってお送りします。
その1回めは、朝ゼミのメンバーたちによって上演された夢野久作「卵」の朗読ブログラムです。とっても気持ち悪いです。じっくりお聴きください。
出演は、豊津加奈子、まりも、レイラ、シバシムツキ、嶋村美希子、まえのさちこの6人。音楽は水城ゆうです。

ケロログ「RadioU」で配信中。

iPhone アプリ「オトブロック」

iPhone には音楽系アプリがたくさんあって、私もそのうちのいくつかを愛用し、実際に自分のライブで使ったりもしているが、この「オトブロック」はちょっとびっくりした。
ゆるい。ゆるすぎる!

まず、そのインターフェース・デザインを見よ。
全部手書き。しかも鉛筆書き。
これがリズムマシンだというのだからびっくりだ。
使い方は簡単。
四角いカラのブロックに、下にならんだリズムのサンプル音を放りこむだけ。
このリズム音の表現も、
「ドン、チ、タン、カッ」
「ずん、ギリ…、ポ、ツ」
など、実にわかりやすい。なかには意味不明のキャラクターもあるが、それを放りこむとキャラクターが「鳴く」。
8ステップのリズムパターンが4種類作れるようになっていて、けっこう使える。
こういう発想は、私にはまずない。リスペクトを献じよう。

これを作ったのは国立音大のコンピューター音楽系の人で、成瀬つばさという人らしい。
YouTube に「セカイノカタチ」という作品も UP されていて、なかなかおもしろい。
けっこう注目株かもしれない。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.15

とくに技術的なことを専門学校などで習ったこともない私でも、番組編集は簡単にできた。もちろん最初は機材やソフトの扱いでいろいろな苦労を重ねたが、ネットや書籍をあたって情報を集め、すべて独学で身につけた。「ジューシー・ジャズカーゴ」という名前の番組だった。

タイトルどおり、ジャズを流したり、うんちくを傾けたりする番組で、ジャズにあまり詳しくない高橋さんに私が解説する、というスタイルだった。55分番組だったので、新譜を紹介したり、古い定番曲を紹介したり、特集を組んだりと、いろいろな工夫をしたが、長尺だった。

構成をさまざまに工夫したが、やがてオリジナルの音源を流すコーナーを作ろうと思いたった。ジャズ曲に乗せてオリジナルのショートストーリーをナレーターに読んでもらうコーナーをやることにしたのだ。これは福井時代、福井トヨタの提供で作った番組のスタイルだった。

まず私が選んだジャズ曲のイメージに合わせてショートストーリーを書く。ごく短いもので、コーナー枠は5分から6分程度。曲は2曲使い、ショートストーリーも前半と後半の2部に分かれている。それぞれ1、2分程度の短いナレーションになる。これを読んでもらうのだ。

番組の制作費は持ち出しだったので、ナレーターにギャラを払うことはできない。高橋さんがアイディアを出してくれた。彼女は日活の声優学校で教えており、そこの生徒や卒業生に声をかけてノーギャラで収録してもらおうというものだ。勉強ににもなるからいい、という。

さっそく数人の声優の卵がやってきた。みんな20代の若手ばかりである。収録は豪徳寺の私の部屋でおこなった。そのために私はハードディスクレコーダーとマイクをあらたに買った。レコーダーのトラックに曲を転送しておき、それをヘッドホンで聴きながら読んでもらった。

FM福井で榊原忠美氏らとそんな番組を作っていたので、私はそんなコーナーは簡単に作れるものと思っていた。ところが目算はまったくあてがはずれた。声優の卵たちがまったく「読めない」のだ。もちろん日本語としては読める。が、榊原氏のような「表現力」がまったくない。

せいぜいアニメーションの吹き替えのような作り声でのキャラクター表現しかできない。それではせっかく精魂こめて書いた私のショートストーリーがまったく生きないではない。アニメ読みではなく、朗読表現がほしかったのだ。しかも音楽ともコラボレーションしているような。

榊原氏がいとも簡単に、しかも次々とおもしろいアイディアを繰り出しながら読んでいたものだから、私はてっきり訓練を受けたナレーターならみんなそういうことができると思っていた。実際にはまったく違った。ただ読むことと、表現すること/音楽に乗ることはまったく違う。

私は若手声優たちといっしょに、勉強会をやることになった。もともとビアの教師や小説工房の世話役をやっていたように、人になにかを教えたり、いっしょに考えるのは嫌いではない。若い連中と朗読の研究をすることになり、そのためにまず文芸小説の読み方の練習を始めた。

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2010年7月15日木曜日

宮崎駿の iPad に関する発言が波紋を呼んでいる

宮崎駿がスタジオジブリの発行する冊子『熱風』のなかでのインタビューで、iPad について発言していることが大きな波紋を呼んでいる。
彼は iPad を持って説明するインタビュアーに対して、このようなことをいっている。
「そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色悪いだけで、僕には何の関心も感動もありません。嫌悪感ならあります」
「そのうちに電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね」
「一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人はおそらく沢山いるでしょう。60年代にもラジカセに飛びついて、何処へ行くにも誇らしげにぶら下げてる人たちがいました」
「新製品に飛びついて、手に入れると得意になるただの消費者に過ぎません。あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい」
このような発言を掲載する『熱風』の編集部もすごいが。
この発言に対して、国内外からさまざまな反響が出ている。
いちいち紹介しないが(「宮崎駿 iPad」で検索すればいくらでも出てくる)、なかにはこんな意見もあった。
「小学生のとき、シャープペンを使おうとしたら、鉛筆を使えと強要されたことを思いだして悲しくなった」

まず私の意見を書いておくと、私はこの宮崎駿の発言に対して大いなる共感を持って受けとめている、ということだ。
その理由を書く。
宮崎駿でも大江健三郎でもだれでもいいが、第一線でものを作りつづけてきた者が「ある変化」に対して一見「保守的」ともとれる発言をすることはよくあることだ。
たとえば、小説家の世界では、手書きの原稿用紙からワープロ/パソコンでの執筆へのシフトに対して、「文体が変わる」あるいは「なにかが決定的に変わる(損なわれる)はずだ」といって抵抗した作家がおおぜいいた。いまでもいる。
また、最近では紙に印刷された活字本から電子書籍へと活字製品が移行していく流れに対して、危惧を表明し抵抗している作家や版元は多い。
デザインの仕事が紙から PCソフトへ、建築設計の仕事が設計用紙から CAD へ、といった具合に、あらゆるもの作りの現場で IT化の波が押しよせている。
IT化に限らず、こういうことはいつの時代にもあった。
もの作りの現場において、効率性や利便性をあげるためになにかあたらしい道具が導入されるとき、かならず抵抗が起きる。それはたんに「あたらしい道具」への嫌悪ということではない。
抵抗する者、とくに第一線で活躍している熟練者たちは、自分の作業の手順が効率性や利便性の名目で別のものに置き換わることで、「なにか大事なものが損なわれる」ことを知っているのだ。
効率や利便はかならず、なにかを犠牲にしておこなわれる。宮崎駿は「私には鉛筆と紙があればいい」といっているが、彼は紙の上で鉛筆を動かすことでしか表現しえない世界があることを熟知している。それをなにかに置き換えられることに本能的な嫌悪と恐怖を抱いているのだ。
私にはその気持ちがよくわかる。
しかし一方で、効率化と利便性を求める社会の大きな流れは、いまのところ止めることができない。宮崎駿がいくら抵抗したところで、iPad のような機器は普及しつづけるだろうし、鉛筆でアニメを描くような人は減少しつづけるだろう。もはや手書きで原稿を書く小説家がほとんどいないように。
それに、IT化でしか実現できなかったようなことがあることも確かだ。
世界は、時間と空間を大きく超える擬似的にではあるがコミュニケーションの手段を手に入れた。それはまだ発展をつづけている。このことが人と人のつながりを作り、リアルなコミュニケーションの質をも変えつつあることは事実で、それは落胆すべきことばかりではないように私には思える。
効率化によって得られるもの、失われるもの、その両方を正しく見据えておくことが、当面の私たちにはできることだろうし、そういう視野を持ちつづけたいと思う。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.14

そうやって自由に自分の小説を配信しはじめた私に、ある人からコンタクトがあった。ミトラスという、いまはもうないが、ネットコンテンツの制作会社の社長の山田氏からだった。彼は私のやっていることに注目し、なにか一緒にビジネスができないかと持ちかけてきたのだ。

携帯電話の世界ではDoCoMoがi-modeケータイを大々的に宣伝していた。メールマガジンをそんなケータイに配信することも可能で、事業化できないかという構想を練っていた。ユーザーが喜ぶ無料の読み物コンテンツと広告を組み合わせたメルマガを考えていた。

仕組みはこうだ。読み物満載の娯楽メールマガジンを無料で配信して、万単位の読者を集める。メルマガの末尾に数行の広告を掲載する。1配信につき数円の広告料を広告主からいただく。ビジネスモデルとしては完璧なはずだった。私は山田氏とアイ文庫という会社を立ちあげた。

134 アイ文庫が立ちあがると同時に、私は仕事場を東京に移した。そのころには福井での仕事はほとんどしていなかった。パソコン通信はもちろんのこと、テレビやラジオの仕事もほとんど断っていた。娯楽小説を書く商業出版の仕事もしていなかった。ほぼアイ文庫一本になっていた。

東京では世田谷の豪徳寺にワンルームマンションを借りた。小田急線で新宿から20分足らず。アイ文庫は山田氏がやっていた新宿区のミトラスという会社に間借りしていたので、便利がそこそこよかった。東京に出るとアイ文庫の仕事以外にもいくつかの仕事が舞いこんできた。

まず知り合いのアナウンサーでコミュニティFMの仕事をしている人がいた。フリーアナウンサーの高橋恵子さんで、私がラジオの仕事をしていたということから、いっしょに番組を作らないかという話が来た。ただし、コミュニティFMなのでギャラは出ない。むしろ持ち出しだ。

スポンサーはとりあえずアイ文庫1社で番組を制作することになった。局はFM世田谷で、収録はここのスタジオでおこなう。収録素材を私が自宅に持ちかえり、コンピューターを使って編集し、番組にする。それを局に納品し、オンエアしてもらう、という流れだった。

いまでもコミュニティラジオ局では残っていると思うが、収録やオンエアに使う素材はほとんどがMDだった。私と高橋さんはスタジオに行って、いちおう番組構成の時間軸に沿ってトークをMDに収録する。終わったらMDを自宅に持ってかえり、コンピューターに取り込む。

当時はSONYのMDウォークマンを使っていて、当時の最新機種はUSB経由で直接デジタルデータをコンピューターに取りこめて便利だった。データはWAVE形式で、それをDAWソフトで編集する。デジタル・オーディオ・ワークステーションという音楽編集ソフトだ。

当時はまだWindowsマシンを使っていて、SONARというDAWソフトを使って編集した。ラジオ番組の編集はFM福井時代によく見せてもらっていたが、もちろんアナログのテープ編集だった。が、原理はもちろん同じで、デジタルのほうがはるかに楽だった。

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2010年7月14日水曜日

いま読んでいる本:遊牧夫婦

無職のまま結婚して、そのまま海外旅行へと出かけ、5年間も旅生活をしていた夫婦の本。
旦那のほうが書いているのだが、これはいまも「ミシマガジン」というネットマガジンに連載中のものらしい。それの最初のほうの、オーストラリアから東ティモールまでの旅の様子。
おもしろい読み物だし、こんな夫婦がいたんだという驚きもあるが、残念なことがひとつ。
文章が雑!
この旦那は物書き志望ということで旅に出る前からライター仕事もしていたし、出る前に雑誌から旅ルポの仕事ももらって行ったはずなのにね。
たぶん、沢木耕太郎のハイクオリティな旅ルポ(というよりほとんど文芸旅行記)を読んでしまっているからかもしれない。
残念ながら、ネットクオリティ。活字は文体、文章が大事だなあ。

ふと思う。
ネットの普及でだれもがメッセージを発信できるようになったのはよいが、その分、文章クオリティはどんどん下がっていってしまうのではないか?
だれがそれを底上げする?
ネットの普及によって世界公用語が「プア・イングリッシュ」になってしまったように、テキストもネットによって「プア・クオリティ」になってしまうのか。

『遊牧夫婦』近藤雄生/ミシマ社




朗読の快楽/響き合う表現 Vol.13

本と雑誌フォーラムには、当然のことながら、本好きの人たちが集まっていた。こちらでも、私が仕事で上京するたびにオフ会が開かれ、濃密なコミュニケーションが生まれた。小説家志望者もいた。私はフォーラム内に「小説工房」という小説修行のためのコーナーを開設した。

プロの小説家がやっているというので、たくさんの人が書きこみを始めた。その盛況ぶりはニフティサーブ内でも評判になるほどだった。私はこのコーナーを小説道場のような場にし、アマチュアの書き手たちに惜しげなく小説の書き方を手ほどきした。それがまた人気を呼んだ。

毎週のように小説コンテストのようなことを開催した。毎回何十人という書き手が腕によりをかけて、決められたテーマに沿った小説を投稿してきた。私はそのすべてに目を通し、コメントをつけ、そして書き方のアドバイスをしていった。会員はどんどんふくれあがっていった。

30代なかば、私の日常は、自分の小説執筆よりも、テレビ、ラジオ、パソコン通信、とくに小説工房の世話に明け暮れ、収入はどんどん不安定になっていった。それでも、小説工房の活動は内藤忍氏の出版社・青峰社から2冊の単行本として形のあるものとして残ることとなった。

青峰社は独立系の小さな出版社で、内藤氏との付き合いから『赤日の曠野』という、念願だった旧満州を舞台にした冒険小説を出すことができた。そのために内藤氏と中国東北部に取材旅行をしたりして、大変楽しい思いをさせてもらった。その分、逆に商業出版がつらくなった。

バブルに陰りが見えはじめたこの頃から、娯楽小説の売れ行きも急速に悪化しはじめた。とくにノベルスの分野が悪くなっていった。かろうじて仮想戦記ものが売れていたが、それも一部マニアのもので部数も少なかった。もちろん私はそんなものを書く気はまったく失せていた。

商業出版社からは、売れる小説を求められていた。書きたい小説でもなく、良質な小説でもなく、「売れる小説」しか求められないことに、私は大きな失望を感じはじめていた。一方で、ネットの世界ではインターネットとケータイが急速に普及しはじめていた。

商業活字出版の世界に嫌気が差した私は、お金にはならないけれど自由に書けて、より多くの読者を得る可能性があるネット配信の世界に、活動の場をシフトさせていった。まぐまぐというメールマガジン配信会社がスタートしていて、そのシステムを使ってみることにした。

小説をまぐまぐシステムで配信しはじめると、おもしろいことがわかった。私の小説は読者のコンピューターなり携帯電話なりに直接配信され、それに返信する形で読者の声は私に直接帰ってくるのだった。双方向のコミュニケーション実験だった小説工房と、ある種、似ていた。

自分の読者との直接交流はまったく苦痛ではない私にとって、これは違和感のないシステムだった。私は自分の小説を、だれの検閲を受けることもなく自由に配信でき、読者から直接リアクションを受け取れるというこのシステムが、とても気にいった。

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2010年7月13日火曜日

Ustream番組「UBunko」ゲスト:窪田涼子は明日7月14日放送

初回に登場した大阪のナレーター・朗読者の窪田涼子が、ふたたび出演します。
トークと、朗読と音楽によるセッションをお送りします。

放送は7月14日(水)午後8時より。
視聴はこちらから。

いま読んでいる本:エレクトリック・マイルス1972-1975

タイトルに年代が記してあるとおり、この時期に限定しての帝王マイルス・デイビスの評伝である。
この時期、私は15歳から18歳。ちょうどジャズを聴きはじめた頃で、しかしなぜかマイルス・デイビスには遭遇することがなかった。
微妙に後ろにずれていたのかもしれない。その証拠に、マイルス・スクールの卒業生たちの音楽には夢中になった。
この本にも詳細に書かれているが、マイルス・スクールの卒業生(チルドレン)からはジョン・マクラフリンの「マハビシュヌ・オーケストラ」、チック・コリアの「リターン・トゥ・フォーエバー」、ハービー・ハンコックの「ヘッド・ハンターズ」、そしてジョー・ザビヌルとウェイン・ショーターによる「ウェザー・リポート」などがある。これらのバンドに私は夢中になっていた。
このすべての元にマイルスが君臨していたとは、当時は知らなかった。いまになってあらためて読んで確認してみると、マイルス・デイビスという人間の巨大さがさらに迫ってくる。

この本にはほかにも、マイルスがエレクトリックサウンドにこぎだすきっかけとなった地味・ヘンドリックスやスライ・ストーンらとの交流も詳しい。
チック・コリアが、「当時はマイルスから指示されるとおりに演奏していたけれど、なにをやっていたのかさっぱりわからなかった」といい、そして30年後にようやく理解できた、といっているのが印象的だ。
チック・コリアですらマイルスの音楽を完全に理解するのに30年かかったのだ。マイルスの先進性がわかるというものだ。
あらためてマイルスを時代順に聴きなおしてみたくなった。

『エレクトリック・マイルス1972-1975』中山康樹/ワニブックスPLUS新書

iPhone App「Star Walk」

愛用のアプリを紹介する。
先日、友人の大ちゃんの家に行ったとき、まわりに人家の少ない山中だったので、最初にした質問が、
「ここって天の川、見える?」
だった。
見えるそうだ。が、同行した別の友人は、生まれて一度も天の川を見たことがないといった。
私はかろうじて数回見たことはあるが、それにしてもいまは東京住まいなので、夜空を見上げても数えるほどしか星は見えない。
しかし、星を見ることは好きだ。星を見ているとき、脳はなにか別の働き方をしているような気がする。
星が見えないときは、このアプリを代用する。

起動すると、まず、その日の基本データが表示される。
画面もなかなかかっこいい。科学少年だった私たちの世代にはたまらない。
太陽系のおもな惑星と当日の状態。太陽なら日の出、日の入り、日の長さ、視度、月なら月齢など。昨日は新月というか、月齢ほぼゼロだったことがわかる。

右下の「×」ボタンを押して当日情報を閉じると、基本画面が表示される。
星空だ。
スペーシーな感じの音楽が流れているが、これは設定で消すこともできる。
設定で星座を表示させることも、させないこともできる。星座の名前を英語または日本語に切り替えることも可能。
表示されている線分は地平線と黄道だ。
iPhone を夜空にかざせば、その方角の星が表示される。これは便利。
また、夜、暗いところで使うのに見やすい「夜間モード」というのもある。

画面はピンチイン、ピンチアウトで、拡大・縮小できる。
星座や星そのものをタップすると、それについての詳細情報が表示される。
惑星ならその説明や運行情報など、詳しいことが読める。

おまけモードでハップル宇宙望遠鏡による美しい星の写真がたくさん見ることができるほか、検索モードもあり、こまやかな配慮が行き届いているアプリだ。
頻繁にバージョンアップもされているのも好ましい。
現時点で350円。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.12

地方局ではあるけれど、私はラジオやテレビ制作の現場に密接に関わるようになっていった。福井テレビではやがて、週に一回のレギュラー番組の司会者をやるようにもなった。これは毎週、地元や来県の著名人を相手にインタビューするというもので、大変濃い経験となった。

福井放送にはとても若い加藤幸という社長がいた。若いばかりでなく、革新的な考えを持っていて、また愛すべき性格の人でもあり、クリエイターたちと仲間意識を共有していた。彼は東京に出ていったクリエイターたちを福井に呼びもどしておもしろいことをやろうとしていた。

芸術方面にも理解が深く、音楽や美術やデザインなどのアーティストに手厚くあたっていた。川崎和男氏もそんな仲間のひとりだった。私もそのように敬意をもって扱っていただいたことが、いまとなってはとても懐かしい。加藤幸氏は若くして事故死してしまった。残念である。

加藤幸は先見の明があり、放送事業もいずれ、電子ネットワークの発展によって大きく変わるだろうと予測していた。それは実際、ずばりとあたることになるのだが、当時から先手を打とうとしていた。私は彼に、まだパソコン通信と称していたネットの試みをすすめてみた。

ニフティサーブや PC-VAN や日経テレコムなどのパソコン通信サービスが本格的に始まったのは、1985年ごろだった。私は田舎在住のハンディを解消するために、執筆や情報収集に積極的にネットを活用した。高い通信費を払っても田舎は生活費が安いので割が合う。

大手のパソコン通信サービスのほかに、BBSと呼ばれる小さなネットがたくさんあった。電話回線を使って通信していたので、地域内のBBSだと電話代が節約できていいというのもあった。福井県内にも工業情報センターや行政がやっているBBSがいくつかあった。

が、民間がやっている本格的なBBSはまだなかった。そこで私は加藤社長に持ちかけて「TAMPOPO」という名前のBBSを立ちあげた。いまでは考えられないほどコンピューターが非力な時代で、外付ハードディスクも容量が20メガ(ギガではないよ)とかだった。

回線も、ほとんどのBBSが1回線で、だれかが接続してしまうとその間は話中になって接続できなくなってしまう中、TAMPOPOは最初から3回線だった。つまり、チャットもできた。私はそこでシスオペ(司会者のようなもの)を務めた。

地元でパソコン通信愛好者たちの交流が生まれ、オフラインミーティングと称して飲み会やらピクニックが頻繁におこなわれた。その盛況ぶりは全国的にも有名になるほどだった。同時に私は全国ネットのニフティサーブでもシスオペを引き受けるようになった。

武井一巳氏が開設した「本と雑誌フォーラム」というニフティ内の一部署の運営を引き受けたのだ。こちらは地域BBSとはまた違ったおもしろさがあり、こちらも大変な活況を呈しはじめた。私は小説の仕事がだんだんおろそかになっていった。

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2010年7月12日月曜日

コップのなかのあなた

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名古屋ワークショップ7月10日フォト5

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iPhone 4 か new iPod touch か

速報。デマかもしれないので、そのつもりで。
いくつかの英国の技術系 blog が報じているらしい。
次期 iPod touch は iPhone 4 とおなじ5メガピクセルのカメラ、HDビデオ録画機能、ジャイロスコープを搭載し、Apple のあたらしいビデオ通話機能「Face Time」が乗るらしい。
touch は電話機能はないけれど、WiFi で接続すれば Skype もできるので、WiFi のあるところならビデオ通話もできるというわけだろう。

iPhone 4 がほしいと思っていて、しかし黒しか出なかったので白待ちだったけれど、これだったら iPod touch を待ったほうがいいかも。
これ以上電話機を増やしたくないもんね。機種変といっても、手続きがめんどくさいし。

名古屋ワークショップ7月10日フォト2

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名古屋ワークショップ7月10日フォト1

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朗読の快楽/響き合う表現 Vol.11

原稿用紙200枚しかない未熟な小説を送りつけてから1年半の歳月が経っていた。そして私はまったくあらたな生活を田舎でスタートしていた。覚えていないのもしかたがない。1985年の夏、私は東京の出版社に自分の本の打ち合わせのために行くことになった。

徳間書店の担当編集者は、あとで知ったことだが、西村寿行や夢枕獏を世に送り出した名物編集コンビで、石井さんと今井さんといった。最初に私の原稿を読んでくれたのは今井さんのほうで、デスクを見せてもらってわかったのだが、投稿や持ち込みされる原稿が山になっていた。

ところが私に連絡を取る段になってひと悶着あった。原稿を徳間書店に送りつけたとき、私は京都の住所と電話番号しか書いておかなかったのだ。いざ連絡してみると、その番号はすでに別の人が使っており、住所も変わっていた。が、私は簡単な略歴を原稿に付けていた。

略歴の出身地と本名からNTTに問い合わせて、私の電話番号を突き止めたのだった。で、呼ばれて、東京で出版の打ち合わせをすることになった。徳間書店は当時、新橋の烏森口のほうにあった。古いビルで、有名出版社の建物とは思えず、驚いた覚えがある。

ビルにはいると、宮崎アニメの『天空の空ラピュタ』のポスターがべたべたと貼ってあった。編集部に行って、石井さんと今井さんにご挨拶した。話ではやはり、200枚という原稿分量では単行本にするには短いので、400枚以上にする必要があるという。

書き直しにあたって、たんに分量を引きのばすのではなく、逆にギュッと凝縮してほしいといわれた。つまり、200枚のストーリーを元に800枚書き、それを400枚に濃縮したようなものにしてほしいといわれたのだ。私は納得し、帰省すると、さっそく執筆に取りかかった。

その後、紆余曲折はあったが、1986年の夏に私の初小説『疾れ風、咆えろ嵐』が出版された。ラッキーなことに、編集部でたまたま私の小説を目にした筒井康隆氏が、帯の推薦文を書いてくれた。自分が愛読した作家から推薦文をいただくというのは夢のようなことだった。

初の単行本が出ると、私はすぐに次の小説の執筆に取りかかった。そして他社からの執筆依頼も次々と来た。中央公論社や朝日ソノラマからは単行本の依頼が、ほかにも雑誌から短編の依頼が来た。私は急に忙しくなった。そこで、ピアノ教室の仕事を徐々に縮小していった。

ラジオの仲間は私の小説家デビューをとても喜んでくれた。ピアノ教室は縮小したが、ラジオや、榊原忠美との朗読セッションはつづけていた。そのうち、ラジオは番組の構成だけでなく出演もおこなうようになった。また、地元のテレビ局からも出演依頼が来るようになった。

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2010年7月11日日曜日

ウェルバ・アクトゥス・ワークショップ、野外ミニライブ、懇親会

昨日7月9日。名古屋にて。晴。
宿泊している丸の内のホテルからてくてく歩いて栄へ。デパ地下で昼のお弁当を仕入れてから、バスで演劇練習場アクテノンへ。
今回のウェルバ・アクトゥス・ワークショップは大練習場を借りていて、じつに贅沢(もちろんその分費用はかさむ)。それなのに、欠席者とドタキャンが続出。デフォルト参加者は数名というありさま。そのかわり、見学者が5名ばかりいるらしい。

時間前に腹ごしらえ。
14時からワークショップ。今回からファンキーが進行などのサポートに入ってくれることになって、とても心強い。
見学の方も、とりあえず参加してもらうことにして、スタート。初めての方がいるので、ウェルバ・アクトゥス(現代朗読)の考え方の基本を押さえながら進めていく。
朗読は身体表現である、朗読はコミュニケーションである、表現の質(クオリティ)は身体の質に左右されるので「マインドフルネス」の練習は大切である、知らず知らず自身で「拘束」してしまっているいる身体と精神を解放する練習が必要、など、実際のエチュードを交えながら、いつものように進めていく。
初参加の役者志望という女性(20代前半)が、テキストを読んでもらったとき、あまり伝わらないクオリティだったので、クオリティを高めるためのエチュードをやってもらったら、みるみる変化していったので、本人も含め皆さんが驚く。私も驚く。つまり、どんな人にもすごいポテンシャルがあって、ただそれを発揮できないなんらかの阻害要因が働いているだけだということだ。その阻害要因を取りのぞいてやるだけで特別なことはなにもしなくても、人はみずからのポテンシャルを発揮し、すばらしい表現体になることができる。

やはり初参加だが、他の朗読講座には長年通っているという中年女性から質問が出た。
「普通の教室では、ひとりずつ読んで、そのたびに滑舌とかイントネーションとか、読み方を直されたりするんですが、ここではそういうことはしないんですか?」
やりません。いや、まったくやらないわけではないが、技術的なことにまず目がいってしまうと、それ自体が目的になってしまうことがあるし、「ある型」に個人表現をはめこんでいくことになってしまう。それは私のもっともやりたくないことだ。
個人のなかにある、まだ本人すら気づいていない不定形のポテンシャルを引きだすことが目的なので、読み方について技術的な指導をすることは、よほど後になってからのことになる。
そんなふうに答えると、とても驚かれたようだった。
しかし、そんな彼女の疑問や驚きに対して、デフォルト参加者たちが自主的にフォローしてくれたので、私はありがたかった。デフォルト参加者たちがどれだけ私の考え方を理解してくれているのか、おぼつかないところがあったのだが、今回のワークショップで皆さんがしっかりと理解してくれていることがわかって、本当にうれしかった。
見学には位里ちゃんと優美さんも来てくれた。優美さんとはまったく話せなかったのだが、ワークショップを見てなにか感じてもらえたのだろうか。

17時すぎにワークショップ終了。
野外ライブのリハーサルを少しやる。これもノノミヤに任せた。私は少し休む。
18時すぎにアクテノンの野外ステージに移動し、ミニライブの準備。MOMOから借りたピアノやスピーカーをセッティングしたり、観客用椅子をならべたり。
18時半、ミニライブを始める。お客さんは少なかったが、野外ステージは以外に音響もよく、風が吹きわたり、雲が流れるのが見えたりして、とても気持ちよかった。出演の皆さんも気持ちよく、自由に楽しんでくれたようだった。
幼い子どもをふたり連れたお母さんが見てくれていたのだが、大きいほうの子どもがステージの前までやってきて、最後の「祈る人」の合同朗読のときには、自分は字が読めないくせに懸命に声を合わせようとしてるのがかわいらしくもうれしかった。

林ちゃんの「星めぐりの歌」独唱にみんながからむ。
ノノミヤの「温室」。
5人での「Kenji V」。
最後に「祈る人」。
19時半、ミニライブ終了。楽しかった。
後片付けをして、懇親会の会場まで歩いて行く。

懇親会には MOMO の節っちゃん、カメラの丸ちゃん、そして僧侶見習いになった今泉くんがひさしぶりに顔を出してくれて、大盛り上がり。
いやー、今泉くんが来てくれて、びっくりしつつうれしかった。こんなにうれしく思っている自分にびっくりした。
今年の名古屋のウェルバ・アクトゥスはスロースタートだったが、いい感じになってきた。一歩さんの変わらぬ情熱にも感謝。
二次会に行こうという話になったが、私はほとんど眼をあけていられないほど眠くなっていたので、ファンキーにホテルまで送ってもらった。

2010年7月9日金曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.10

番組はそれなりにやっていたが、朗読とピアノでなにかやろう、という話になった。私はそのころ、自宅だけでなく、福井の松木屋という楽器店でも、大人相手にポピュラーピアノを教えるようになっていた。その松木屋の上にちょっとしたホールがあり、ライブができた。

ガルシア=マルケスの作品だったと思う。榊原が朗読し、私が即興でピアノを弾く。そんな朗読ライブを、福井の松木屋のイベントスペースでおこなうことが決まった。その私と榊原のライブスタイルは、実に現在にいたるまで延々と25年にわたってつづくことになるのだった。

FM福井で私と榊原と、ディレクターの杪谷というトリオで番組を作りながら、朗読と音楽の公演をちょくちょくやりはじめた。〈ウェスト〉というディスコで寺山修司を題材に、越前竹人形の遣い手と共演したりもした。そうやって前衛的な試みをどんどんやっていった。

子ども相手のピアノ教室、大人相手のポビュラーピアノ教師、FM番組の構成作家、朗読と即興音楽のパフォーマンス、そして近所の本屋での学習塾の教師。子どもが生まれたばかりの私は、経済的にさほどめぐまれてはいなかったが、楽しく充実した生活を送っていた。

こんな感じで田舎で腰を据えてのんびりと一生をすごすのも悪くはないと思いはじめていた。が、そんなところへ、仰天する出来事が起こったのだ。実をいうと、帰省してからは、京都時代にあれほど熱中していた小説書きはほとんどやっていなかった。ラジオ構成で満足していた。

京都を引きあげて福井に帰ると決めたとき、私はひとつだけ決めていたことがあった。習作ばかりでいっこうに完成しなかった小説を、せめて一本だけでも書きあげよう、ということ。目標は長編のSF小説だった。そのためのアイディアはあった。

書店に並ぶような長編小説は、400字詰め原稿用紙にすれば、だいたい350枚から500枚程度で1冊になる。もちろん、当時は原稿用紙に手で書いていたので、私もそれが目標だった。が、なんとか一本書きあげてみたものの、それは200枚くらいにしかならなかった。

しかし、ともあれ、一本の小説をついに最後まで書きあげたのだ。たしか、タイトルは『アヤヌス・水の惑星』といったと思う。大いに『デューン・砂の惑星』の影響を受けていた。私はそれを当時『SFアドベンチャー』というSF雑誌を刊行していた徳間書店に送りつけた。

もちろん、返事はなく、私はその小説のことをすっかり忘れたまま、福井に引っ越してしまった。ある日、私はたしか、近所の本屋の学習塾で子どもたちに教えていたときのことだ。妻から「なんか徳間書店とかいうところから電話がかかってきたんだけど、本でも注文した?」

心あたりがなかったが、家に帰るとまた電話がかかってきた。「あなたの書いた小説をおもしろく読ませてもらった。出版したいので、一度来てもらえないだろうか」私はすっかり送りつけた小説のことを忘れていたので、ストーリーすら思いだせないありさまだった。

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2010年7月8日木曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.9

中には、いまでは世界的な彫刻家になった福井出身の土屋公雄さんの展示もあった。非常に刺激的な作品群で、私はそこで土屋さんと知遇を得、その後も交流を持つことになった。そのギャラリーを経営していたのが、「ビーちゃん」と呼ばれている人物で、ドラマーでもあった。

ギャラリーの横の物置のようなスペースにドラムセットが置いてあり、そこでドラム教室をやっているのだ、ということを聞いて、まず驚いた。そして、そこに住んでいるのだ、ということを知って、さらに驚かされた。世の中にはびっくりするような人がいるのだなあと知った。

聞けば、ビーちゃんはフリージャズ系のドラマーで、いろいろなジャンルの人ともパフォーマンスをやっているという。なんとなく一緒にやらないか、という話になった。うまい具合に、商店街の祭でビーちゃんが演奏を依頼されているという。とりあえずそこで一緒にやろうと。

1984年の冬だったと記憶している。なぜ覚えているかというと、その年の秋に私の息子が生まれたからだ。私とビーちゃんがやるイベントを宣伝するために、ビーちゃんの知り合いのつてでラジオに出ることになった。12月にFM福井が開局したばかりだった。

ちょうどそのころ、全国の各県に東京FM系列の地方FM局がいっせいに開局していた。FM福井もそのうちの一局だった。JFN(ジャパン・エフエム・ネットワーク)という会社が元締めの系列局で、いまでもそうだ。開局したばかりの新番組に、私とビーちゃんは出演した。

「情報パック」という名前の、土曜日朝の情報番組だったと思う。パーソナリティは局アナの黒川くんと黒原真理さんだった。ビーちゃんは口べたで、しかも福井弁丸出しの素朴派なので、あまりしゃべれず、代わりに私が助け舟を出してイベントについていろいろと話した。

番組はなんとか終わり、イベントも無事に終了したが、後日、FM福井のディレクターから私に電話がかかってきた。番組制作の手伝いをしないか、という誘いだった。田舎町でジャズピアノを弾いている者が珍しかったのだろうと思う。ポップ音楽にも詳しかったこともある。

私はピアノ教師のかたわら、FM福井で放送作家の仕事をするようになった。番組の構成をかんがえ、かける曲をCDから選曲して、番組構成表を作るのだ。FM局のCD庫には大量のCDが移動式ラックに収納されていた。そして毎日大量のCDが送られてきた。

年が明け、あたらしい番組が始まることになった。私はその番組の構成をやることになった。パーソナリティとして局アナではなく、名古屋からタレントを呼んでいた。プロのナレーターで、榊原忠美(ただよし)という名前だった。ちょっと変わった感じの男だった。

癖のある風貌で、もちろんしゃべりはうまいのだが、性格も一風変わっていた。聞けば、名古屋の劇団で役者もやっているとのことだった。本をたくさん読んでいて、私とは話が合った。とくに、その頃熱中して読んでいたラテンアメリカ文学の話では盛り上がった。

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2010年7月7日水曜日

げろきょでないと Vol.16 終了

昨日の夜は恒例の中野ピグノーズ「げろきょでないと」だった。第16回。
どんよりとした蒸し風呂のような空気のなか、中野に出かける。
昨日の出演者は、まず野々宮卯妙と照井数男。後半に矢澤ちゃんが参入。
それから、以前一日講座に出席されたフクダさんが来られて、読みたいものがあるというので、読んでもらう。川端康成の掌編から雨の話。
彼女のリクエストで「プリテンド」という曲を弾く。ピグノーズに置いてあるジャズスタンダードの曲集にはなかったのだが、どんな曲なのか鼻歌を聴かせてもらったら、たしかに聞き覚えのある曲だ。ポップス曲集を探したら、あった。初めて弾く曲だが。

そのあと、照井くんが太宰治の「彼は昔の彼ならず」という小説を読む。連続朗読をやっているやつで、まだまだ終わらない。
今夜のテーマは私が勝手に「散歩朗読」と設定していた。
散歩をするごとく、ピアニストと朗読者が寄り添ってのんびり歩こう、リスナーも一緒に散歩するみたいにのんびり物語のなかを歩いてもらおう、という趣旨なのだが、思いつきなのであまりうまくいかない。
サティとか、あるいはミニマルでかわいらしい音をイメージしていたのだが、これはやはり準備不足。私が悪い。

野々宮卯妙は、先週のライブで久保りかが読んだ夏目漱石の「行列」を読んだ。
散歩テーマとしてはよい題材だったのだが、これも私の音の準備がうまくいかなかった。
うららさんが友だちを連れて来てくれたので、彼女にもピアノを弾いてもらった。夢十夜の第十夜を野々宮が読む。不思議な雰囲気になった。

後半は矢澤ちゃんが来たので、思いきって散歩テーマは捨てて、いつものように自由にやることにした(私はね)。
矢澤ちゃんがピグノーズに置いてあった絵本をおもしろく読む。もぐらと太陽のおもしろい話。
そのあと、新美南吉の短編なども。
照井くんは梶井基次郎の短編を読む。
野々宮卯妙には私の「水色文庫」の最新作をいくつか読んでもらった。「自転車をこぐ」とか「アウンサンスーチー」とか。

毎回思うことだが、次回はもう少し準備をしていきたい。
次回の「げろきょでないと」は7月20日です。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.8

もともと子どもの時から本が好きで、たくさん読んでいた。書くことも好きだった。小説書きの真似事を始めたのは高校生のころだった。短い話を書いては同級生に見せていた。バンドマン生活のあり余る暇を利用して、私はかなり長いものを書きはじめていた。

中学以降、SF小説に熱中していたので、書くものもSFが多かった。とはいえ、いずれも習作で、完成にいたるほどのしっかりしたものは書けなかった。書き方もまったくわかっていなかった。が、いずれは自分の本が出せるといいな、ぐらいの漠然とした望みができてきていた。

バーテンダーの仕事に戻ると小説書きを続けられそうにはなかった。そこで私は、一大決心をした。思い切って生まれ故郷に帰ることにしたのだ。都落ちとはまさにこのことだが、私自身はそれほど深刻には感じていなかった。割合気楽に福井の田舎に帰ることを決めてしまった。

25歳の夏だったと思う。私は京都を引き上げ、福井の田舎に戻った。実家の隣がちょうど空き家になっていて、父にそこを買ってもらってそこに住むことになった。実家にあったピアノをそちらに運びこみ、家でピアノ教室をやることにしたが、なかなか生徒は集まらなかった。

しかし、田舎町にもピアノ教師は何人かいて、その人たちがお互いに生徒をやりくりするためのグループを作っていた。全員女性なので、産休とか育児とか、そういったときのために助けあったり、生徒募集を協力してしあったりといったことを、集まってやっていたのだ。

いまになって思えば、女性が作るコミュニティはすばらしい。私もそれに助けられたのだ。ピアノ教室を始めたらすぐに、その女性のピアノ教師グループから声をかけていただき、私もそれに参加することになった。そして、遠方への出張教室の仕事をもらうことになった。

いわゆる「僻地」の村にはピアノ教師がいないが、子どもにピアノを習わせたいという父母のニーズは高い。そこで、週に一度、村の商工会館の一室を借りて、まとめてピアノ教室をやるのだ。会館の一室には、そのためにかどうか、アップライトのピアノが備えつけてあった。

延べ30人近い生徒がいて、私はその子たちを一手に引きうけることになった。下は3、4歳の幼児から、上は高校生までを、丸一日かけてひとり30分ずつのレッスンをおこなうのだ。私は子どもが好きで、この仕事はハードだったが楽しかった。そして収入確保ができた。

そうやって田舎のピアノ教師生活でもなんとかやっていけるめどがついた私だったが、それだけではさすがに生活費には足りなかった。そこで、近所の本屋が副業としてやっていた学習塾のようなところへもアルバイトに出かけていった。こちらも子ども相手の仕事だった。

生活はまだまだ大変だったが、田舎の生活には余裕もあった。暇を見つけては、私は街歩きを楽しんだ。福井に〈Space B'〉という名の変わったギャラリーがあって、現代美術の展示を定期的にやっていた。物珍しくて、私は時々そこの展示を見に行っていた。

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2010年7月6日火曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.7

ベースの森くんとドラムスの野崎くんとのピアノトリオで、何度かリハーサルを重ね、ライブハウスにも出演するようになった。その頃はまだバンドの仕事がたくさんあった時期で、新しくオープンした店にいきなりバンドが「ハコ」で雇われることになった。

ソロ演奏の仕事も舞いこんできた。フィリピンの女性がホステスをやっている、いわゆる「フィリピンパブ」で、いまから思えばたぶん違法の店だったろう。そこでピアノの「先生」としてソロ演奏やホステスの歌伴をやったりした。ほかにもソロ演奏の仕事はちょくちょくあった。

私は次第に生活の糧をバーテンダーのアルバイトからバンドマンの仕事で得るようになっていった。バンドの仕事は拘束時間が短く、ギャラも高くて効率がよかった。仕事は夜なので、昼間は本を読んだり、バンド仲間と草野球をしたり、リハーサルをしたりしてすごした。

大学はもちろんまったく行ってなかった。単位は足りず、そのうち学費も親から打ち切られてしまったので、除籍になった。バーテンダーもやめ、バンドマン一本でやりはじめた。ピアノトリオはそれなりに活動していて、奈良のラテン音楽系の店で週一のハコをもらったりした。

ほかにもブラックコンテンポラリー系の大きなバンドに参加して、ディスコに出演したりもした。ピアノトリオではドラムスの野崎くんがフリー指向の強い人間だったので、私もフリージャズの魅力に取りつかれ、隙を見てはフリー演奏をして店から嫌がられたりした。

一見、順調にスタートしたバンドマン生活のようだったが、思いがけない落とし穴が待ち構えていた。それはカラオケブームの到来である。カラオケマシンというものが現れ、スナックなどでは導入する店が出てきているという話はちらほらと聞いていた。

気にも止めていなかったのだが、あれよあれよという間にカラオケマシンは京都の店にも普及していき、気がついたらバンドマンをクビにしてカラオケマシンを入れる店が増えていた。バンドマンの仕事がどんどん減っていった。とくに私のような駆け出しはきつかった。

あちこちにコネがある古手のバンドマンはまだしも、私のような新人はどんどん仕事をホサれていった。いくつも掛け持ちしていたハコの仕事がなくなり、歌伴やソロの仕事がなくなり、単発の営業仕事もなくなっていった。さらに追い打ちをかけられることが起こった。

ハコで入っていた店からクビを宣言されたはいいが、さらに給料をもらいにいったら、なんの前触れもなく閉店していたのだ。閉まったシャッターには「差し押さえ」の張り紙が張ってあった。しかもその店からは3か月分の給料が未配だったのだ。

とたんに生活に窮してしまった。その頃には結婚もしていた。バーテンダーの仕事に戻ろうかとも思ったが、拘束時間が長く体力的にもきつい仕事にはもう戻りたくなかった。というのも、バンドマン生活の昼間の長い余暇を利用して、私は小説書きに熱中しはじめていたからだ。

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2010年7月5日月曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.6

1977年、私は大学生になり、自由になるお金がほしくてアルバイトを始めた。いろいろなバイトをやったが、最終的に時給の高い夜の仕事に落ち着いた。祇園の店でのバーテンダーのバイトだ。そこにはグランドピアノが置いてあり、ピアノの練習ができるのが魅力だった。

その店はいまでもある。〈バードランド〉という名前で、もちろんニューヨークの有名なジャズクラブの名前をもじっている。マスターの中川氏はジャズファンで、ピアニストが毎晩やってきて、演奏した。私が店にはいったころはヨッさんというオルガン奏者が来ていた。

バードランドはまた、関西のジャズミュージシャンやバンドマンのたまり場のようにもなっていて、いろいろなミュージシャンが出入りした。バイトはきつかったが、彼らの話を聞けるのが魅力だった。また、彼らといっしょに来日ミュージシャンのコンサートに行ったりもした。

来日ミュージシャンのコンサートのなかで、私にとって最もインパクトがあったのはウェザー・リポートだった。高校生のときにエアチェックして何度も何度も繰り返し聴いていたグループが、目の前で生で演奏しているのだ。それは夢のような体験だった。

ジョー・ザヴィヌル、ウェイン・ショーター、後にはジャコ・パストリアスという、超一流のプレーヤーが生で演奏しているのだ。夢中にならないわけがなかった。そうやって私の20歳の生活はますます音楽化していった。アルバイトの合間のピアノ練習にも熱がはいった。

高校生のときにはどうしても習得できなかったジャズの即興演奏だったが、ジャズにどっぷり浸かった生活のなかで徐々にコツがわかってきた。理論書も読んだし、店に出入りするジャズマンにいろいろ教えてもらったりもした。また、彼らのリハーサルに遊びに行ったりもした。

そのうち、プロミュージシャンのリハーサルなどでメンバーが足りないときに、補欠要員として時々弾かされるようになった。多少アドリブができるようになっていたのと、譜面が読めることとで、しだいに彼らの仲間入りをするようになっていった。

バンドに臨時の欠員が出たときに、補充メンバーとして出向くことを「トラ」という。エキストラの「トラ」なのだが、それに時々呼ばれるようになった。バンドマンは通常、「ハコ」と呼ばれる定期的に演奏する店を持って生活しているが、たまに抜けることがあった。

たいていは結婚式やパーティーなどでの演奏のアルバイトのためにハコの仕事を抜ける。アルバイトのほうがギャラがいいからなのだが、そういうときに代わりのメンバーを補充しなければならない。その仕事が「トラ」といって、遊んでいるバンドマンに回ってくるのだ。

そういった「トラ」の仕事が、ちょくちょく回ってくるようになった。バーテンダーのアルバイトを続けながら、バンドマンの仕事もやるようになっていった。また、ジャズの勉強をさらに深めたくて、若手のバンドマンに声をかけて自分でもバンドを組んだ。

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明日7月6日(火)はPignose「げろきょでないと」Vol.16

明日の夜は20時から、恒例の中野ピグノーズでのライブです。
毎月第一第三火曜日の夜にやっております。
毎回、どんな展開になるのか、なにが飛びだすのか、まったく予測がつかないままやっていますが、いつもなにかしらおもしろいことが起こります。
都合がつく方は遊びに来てくださいね。

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2010年7月4日日曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.5

モダンジャズはバップスタイルからクールへと移行していく。それはごくざっくりといえば、ジャズ音楽の消費スタイルのライブから録音への移行だった。その後、モードジャズが発明され、ジャズは芸術音楽の域へと表現が高まっていった。それが1960年代までのこと。

1970年代にはいって、マイルス・デイビスなどが電子楽器を取りいれたロック音楽との融合をはかったり、ラテンアメリカの音楽のリズムを取り入れたりと、ジャズはフュージョン音楽の時代にはいっていく。まさにそのときに私はジャズを聴きはじめたのだった。

そして田舎住まいだったために、聴ける放送はNHK-FMのみ。クラシックからジャズへと鞍替えした私は、毎回の放送をかじりつくようにして聴いていた。そのころにはカセットテーブという録音媒体が気軽に手に入るようになっていた。

ラジオで放送される音楽をカセットテープに録音することを「エアチェック」と称していて、そのための専門雑誌まであったほどだ。私ももちろん熱心にエアチェックをした。番組ではアルバムを丸ごと一枚放送するようなこともしていたので、金のない高校生にはありがたかった。

高校時代をジャズ浸けですごしたが、サウンドソースがNHK-FMだけでジャズを聴く仲間は皆無だった。演奏するグループもなかったし、もちろん田舎町にジャズ喫茶やライブハウスもなかった。生まれて初めてジャズ喫茶にはいったのは、田舎を離れてからだった。

私は最初の大学受験で失敗し、京都で浪人生活をすごすことになった。北陸の田舎町から京都の移った。左京区の岡崎の、平安神宮や京都会館にほど近いなかなかよい立地の下宿に決まった。すぐ近くの丸太町通りに、〈YAMATOYA〉というジャズの店があった。

予備校通いもそこそこに、私はすぐにYAMATOYAに入りびたるようになった。なにしろ本格的なジャズ喫茶だ。いろいろなレコードがかかっている。夢のような世界だった。またライブ演奏もあった。ある夜私は意を決して、ひとりでライブ演奏を聴きに行ってみた。

出演メンバーを正確には覚えていないのだが、ベースが猪俣猛、ドラムスが日野元彦(故)、ギターに渡辺香津美がいたことは覚えている。6人くらいのジャムセッションだった。いまはすっかりメジャーになった渡辺香津美もまだ若く、ひどくへたくそだった記憶がある。

しかしとにかく、それは私が生まれて初めて接するナマのジャズ演奏であった。クラシックはオーケストラも室内楽もピアノ独奏や歌曲もナマで聴いたことがあったが、ジャズは初めてだった。そしてジャズという音楽の自由さを実感して、衝撃を受けたのだった。

浪人生にも関わらず、私はお金が許すかぎりライブハウスに通った。そのころ(1970年代なかば)の京都には、まだまだジャズ喫茶やライブハウスがたくさんあった。先のYAMATOYAのほかにも、しぁんくれーる、52番街、ZABO、インパルスなど、たくさんあった。

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2010年7月3日土曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.4

いつごろから私の生まれた田舎町でもFMラジオが聴けるようになったのかはわからない。が、私が聴きはじめたのはたしかに中学3年生のころで、それまではラジオといえばAM放送の何局かと、朝鮮語やロシア語の放送が日本海の向こう側から聴こえてくる程度だった。

FMラジオというすごく音質のいい放送があるらしい、ということはやはり父親が聴きこんできて、それが聴けるラジオを私は買ってもらったのだと思う。私はラジオを自分の部屋に持ちこみ、T字型のアンテナを自分で作ってFM放送を聴けるようにした。

たしかにFM放送は音質がクリアで、しかもステレオだった。もっとも、私の田舎町で聴けるFM放送はNHK-FMただ1局のみで、民間放送ははいらなかった。専用アンテナを立てれば名古屋のFM愛知が聴ける、という情報もあったが、なかなかそこまでは手が出せなかった。

最近はだいぶ変わったが、当時のNHK-FMはクラシック中心の選曲の番組がほとんどだった。そして私はそれらの番組を時間の許すかぎり聴きこんで、音楽知識を増やしていった。バロックや民族音楽、現代音楽といったものまで、片っ端から吸収していった。

そんななか、変わった番組があった。正確な名称は忘れてしまったが、「ジャズスポット」とかなんとか、つまりジャズを扱う週1の番組があったのだ。油井正一とか青木啓などのジャズ評論の人たちが担当していて、なかなか聴きこたえのある内容だった。

私はそこで初めて、ジャズという音楽に接したのだった。たしか金曜日の夜にやっていて、たまたまつけたら、聴いたこともない奇妙な音楽が流れてきたのだった。はっきりと覚えているが、そのとき私が耳にしたのはウェザー・リポートというグループの曲だった。

高校生になっていた。発売されたばかりの『ミステリアス・トラベラー』というアルバムの紹介をしていた。電子楽器を多用したサウンド、そして西洋音楽にはない民族的なテイストを持ったメロディやリズム。ジャズがちょうどフュージョンへと移行していくその時だった。

私が高校生だったのだから1975年ごろということになる。ウェザー・リポートの結成が1970年、マイルスの「ビッチェズ・ブリュー」が1970年、チック・コリアのリターン・トゥ・フォーエバーの結成が1972年。まだフュージョンはクロスオーバーと呼ばれていた。

1950年代から60年代にかけて、急速にスタイルの変遷をたどったモダンジャズは、すでに熟成期から早くも老年期を迎えようとしていた。私がジャズを聴きはじめたのは、まさにモダンジャズからフュージョンへと移行していく激動の時代だったといえる。

一瞬たりとも目/耳を離せないジャズ世界の変化だった。そもそもジャズは、1900年代初頭に発生し、ラグタイム、ディキシーランド、スイングジャズと変遷を経て、1040年代にビ・バップ革命が起こり、モダンジャズの時代にはいっていった。

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名前への疑念、文体への疑念

先生、私は迷っております。
もっとも、私には「先生」と呼べる方はおりませんので、架空な対象としての「先生」ですが。

私はここ数年、NVC(非暴力コミュニケーション)という考え方に出会い、勉強してきました。
そこでは人のコミュニケーションのあり方ばかりでなく、この世界のあり方についてのさまざまな考え方や私たちのふるまいについて、古くてあたらしい考え方が提示されています。
ひとりで、あるいは仲間たちと学ぶうち、多くの気づきに出会うことができました。
今日はそのなかのふたつのことを取りあげたいと思います。

20代の終わりに商業的娯楽小説家として本が出ることになったとき、編集者から「ペンネームをかんがえるように」といわれました。なぜなら、私の戸籍名が「娯楽小説家としていまいちだから」だったからです。
娯楽小説家としてふさわしい名前とは、
「人々に覚えてもらいやすい」
「書く内容とイメージが合っている」
そしてなにより、
「売れそうだ」
ということが喜ばれます。
そのときの私はとくになんというかんがえもなく、「水城雄」という名前を自分につけることにし、またその名前は編集者にも喜ばれました。
以来20年以上、私はとくに深いかんがえもなくその名前を使ってきましたし、また人々も私の名前がそれであることを違和感なく受け入れてくれていました。
ところが、いつごろからでしょう、たぶんNVCの勉強を始めたころから無意識内に生まれたのだろうと思いますが、私の名前に違和感を覚えはじめたのです。
違和感の原因がわからないまま、音楽や朗読演出方面のときは「MIZUKI」とローマ字表記にしてみたりしました。
そしてつい最近、違和感の理由がはっきりしたのです。

だれかにいわれたのでした。
「水城雄の「雄」というのは英雄の「雄」で、「オス」ということでしょう?」
NVCでは「男は男らしくするように、女は女らしくするように教育されながら人は育つ。その過程で多くの後天的な考え方や思いこみ、ふるまい方が身についていく」という分析があります。身についてしまった癖のような反応が、ときにある種の「暴力」をもたらすことがあるというのです。
そのとき、私は自分の名前が、性差の象徴のような名前であることに気づいたのです。
これからは「水城ゆう」とひらがな表記にしようかなあ、なんて悩んでいるんですが、どうでしょうね、先生。

もうひとつの迷いを聞いてください。
20代末から小説を書きながら生きてきた私は、なにを書くにしてもほとんどの場合「ですます」調ではなく、「だである」調を使ってきました。そのほうが思考が整理され、文体も切れがよく、よく伝わるように思っていたからです。
たしかにそのような面はあると思います。
ところが、最近、気づいたのです。
私は数年前から宮澤賢治の作品を使った朗読プログラムをいくつか作り、あちこちで上演していますが、賢治の文体はほとんどが「ですます」調です。
最近私は、賢治の作品を「非暴力」という観点から読みなおすことを始めています。すると、彼の「ではます」調の文体は、非暴力と関係があるのではないか、と思えはじめたのです。
かんがえてみると「だである」調は「言い切り」文体であり、断定的です。断定的なものの言い方は、たしかに多くの人を納得させるには有効です。
が、NVCでは「Judgement(評価)を手放す」というのです。人やものごとに対する評価、あるいは自分自身に対する評価、あらゆる場面で評価をくだしつづけているのが現代人だというのです。そのことが暴力的なコミュニケーションを生む一因になっています。
断定的なもの言いは、評価的でもあります。自分はこのことをこのように考えている、というよりも、自分このことをこう評価している、という価値判断の語り方となるのではないか。
私はそのことを懸念しているのです。
で、とりあえずはまず、この文章を「ですます」調で書いてみました。どうでしょうね、先生。

2010年7月2日金曜日

明日のライブの当日パンフに掲載する挨拶文

明日の夜、羽根木の家で開催されるライブ「トワイライト・ストーリーズ」の当日パンフレット(といっても簡単なものだが)に掲載するための挨拶文を書いた。

本日は現代朗読協会「羽根木の家」にお越しいただきありがとうございます。
今日のライブは5月からスタートした「朗読はライブだ!」ワークショップの参加者、ベーシックコースの参加者、そして入門クラスあらため朝ゼミのメンバーによる合同イベントです。3か月をかけて全6回で1期とする「朗読はライブだ!」ワークショップは、今回で第4期となりました。4期全部に参加した者も、今期のみの参加者もいます。今期のみの参加者は朗読はおろかライブ出演すら初めて、という者もおります。
朝ゼミメンバーは1年以上参加している者もいますが、それでも朗読経験の浅い者ばかりです。
そのような者がよいライブができるのか。それはご覧になっていただいて、皆さんがそれぞれ感じることでしょう。ただ、私がこのようなことをわざわざ書いているには理由があります。

現代朗読協会では、朗読に限らず、ひと前でなにかを表現するとき、これまでの表現とはまったく異なったやりかたを試みています。
私たちや皆さんも慣れしたしんでいる従来型のライブイベントでは、普通、出演者が練習によって獲得してきた技術や表現力、たび重なるリハーサルで仕組まれた複雑な段取りなどを見せようとすることがほとんどです。これはこれで素晴らしいパフォーマンスの発表方法であり、私もそれを否定するものではありませんが、ここにはどうしても出演者対観客の間に上下関係が生まれます。つまり、出演者は自分たちの技量やパフォーマンスを観客に誇示することでイベントを成立させるわけです。

そうではなく、ありのままの人同士が上下関係ではない共感関係を作ることで、なにかを共有する場を作ることはできないか。なにも特別な人だけが表現者になれるのではない。だれもが表現し、だれもが表現者として感動を生む場を作れるはずだ。
これが現代朗読協会の考え方です。
これはじつはまったく特別な考え方ではありません。20世紀に入ってから生まれたコンテンポラリーアート(現代芸術)の世界ではごく普通に受け入れられている考え方です。朗読の世界にもこの考え方を取りいれているのが、現代朗読のゆえんです。
今日のライブもそうですが、出演者はけっして自分の「技術」を誇示したり、決められた「段取り」を守ろうとはしません。じつはもっと難しいことに挑戦しています。それは、作られない、たくらまない、ありのままの自分を皆さんの前に提示し、共感を共有できないかという試みです。
なので皆さんは、技術を評価するのではなく、出演者の声や身体や心のありようそのままを感じてみてください。なにが読まれているのかではなく(いえ、もちろんそれも大事なんですけど)、どう読まれているのかに耳を傾けてみてください。そうすれば、出演者と皆さんが、いま、ここに、時間と空間を共有し、朗読という表現でなにかを共に感じ合う体験を、お互いに持つことができるかもしれません。
それが私たちの望みです。

いま読んでいる本:現代人は救われ得るか

まずタイトルに驚いた。このような強い問いで本が成り立つのか?
帯はもっとすごい。
「暴力によって、犯罪によってしか、現代人は結びあえないのか」
いま、NVC(非暴力コミュニケーション)というものを勉強しているところなので気になったというのもある。
また、帯にはこうも書かれている。
「昭和天皇大喪の礼から『1Q84』まで、平成の現実(リアリティ)感覚を根底から問う批評の冒険!」

まだほんの冒頭部分しか読んでいないが、こんな文言があった。

昭和から平成になってさまざまなことが次々と終焉を迎えたことを指摘しながら、
「すべて「終わり」でしかなかった。海外はともかく、すくなくともわが国では何もはじまりはしなかった。無邪気に、無自覚に、降り注いでくる、様々な終わりを眺めながら打ち興じていた。それは、現在も変わっていない。
文芸において、その空虚さは、最も深刻であるように思われる」

昨日、直木賞と芥川賞の候補作品が発表された。

『現代人は救われ得るか』福田和也/新潮社

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.3

いつしか私はクラシック音楽の魅力にどっぷりとはまっていた。父が買ってきたレコードをすりきれるまで繰り返し聴いたし、福井の楽器店に行ってオーケストラのスコア(総譜)を買ってきて、それを見ながら聴いたりもしたので、交響曲がどのように作られているのかわかった。

ピアノ協奏曲のスコアも買ってきた。これはピアノパートがあるので、自分も弾いてみることができる。それが楽しくて、またピアノに向かうようになっていた。ある程度弾けたので、難しい協奏曲にもどんどん挑戦し、しかも先生に怒られることもないので楽しくてしかたがない。

レッスンに通っていないので、弾けようが弾けまいが、弾きたい曲だけ弾けばいいし、いくら難しい曲にもどんどん挑戦したりもする。そうやって私のクラシック音楽の知識はどんどん増えていった。バロックから現代曲まで、実際に弾いて曲構造を確かめていたようなものだ。

とくに私のお気に入りは、ムソルグスキーの「展覧会の絵」だった。ラヴェルが編曲した交響楽バージョンが有名だが、もともとはピアノ曲だ。しかも相当の難物だった。左手がオクターブで激しくスケールを鳴らしたりする部分もあったりして、そのままではとても弾けない。

そこで私は勝手に曲を簡単に弾けるように書きかえ、しかしちゃんと元の曲の雰囲気は壊さないようにして、家や学校で弾いてみせてみんなを驚かせていた。それが快感になっていた。ブラスバンドはやめたが、中2からは合唱団の伴奏をするようにもなっていた。

合唱の伴奏は、ひとりで好き勝手にピアノを弾くのとはまた違ったおもしろさがあった。合唱伴奏は結局、中高を通して続けたのだが、団員は女の子しかいない事実上の女性合唱団だった。男は伴奏の私ひとりという、なんともくすぐったい感じだったが、これは楽しかった。

ほとんどのアンサンブル音楽がそうであるように、合唱もコミュニケーションといっていい。とくに伴奏者にはそれが求められる。この経験を通して、私は音楽でコミュニケートすることの楽しさを覚えたのだと思う。また、音楽を作ることのおもしろさも知った。

合唱団の伴奏だけでなく、クラス対抗の合唱コンクールのときの伴奏も、6年間を通じてやった。中学は7クラス、高校は8クラスあったので、コンクールはけっこうにぎやかで、各クラスとも力がはいった。課題曲と自由曲があり、私たちは自由曲に工夫をこらした。

難曲を勝手に書きかえたり、我流で器楽曲をピアノで弾いたりしていたので、自然に曲のアレンジができるようになっていた私は、合唱用にもいろいろな曲をアレンジして、クラスに提供し、コンクールに臨んだ。その結果、私のクラスは何度も優勝をかっさらった。

そうやって私は自由に音楽すること、自分で音楽を作ることの楽しさを覚えていったのだった。そんな思春期のまっただなか、私はジャズという音楽に出会うことになる。そのころの私の音楽試聴はもっぱらLPレコードが中心だった。そしてFMラジオの存在を知った。

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2010年7月1日木曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.2

私はもともと手先が器用なところがあり(それは洋裁/和裁をこなす母親からの遺伝だ)、女の子に混じってのピアノレッスンもめきめきと上達し、あっという間にソナチネ、ソナタまで進んでいった。小学6年生のころにはベートーベンのピアノソナタを弾いていた。

もちろん音楽がわかっていたわけではない。ただ技術的に指を小器用に動かして、楽譜に書いてあるとおりにピアノを弾いていただけだ。音楽そのものが楽しいわけではなかったのと、次第に思春期に近づいてきたこともあって、私のピアノに対する気持ちは変化してきた。

女の子ばかりのピアノ教室に男ひとりで通っていることが、だんだん気恥ずかしくなってきたのだ。やんちゃ盛りのガキ仲間を尻目に、レッスンバッグをさげてピアノを習いに行くことが恥ずかしかった。また、そのことをからかわれたりもした。

とくに嫌だったのが発表会だった。高学年になると、相当弾けるようになっていた私は、プログラムの終わりのほうで演奏するようになった。当然注目が集まるわけで、男の子がひとり、難しい曲を発表会で演奏すると、いろいろな人からいろいろなことをいわれた。

ピアノレッスンに通うことが嫌でいやでたまらなくなった私は、両親に頼みこんでなんとかやめさせてもらうことにした。両親は、中学生になったらやめてもいい、という条件で、それを許してくれた。中学生になると私はピアノをやめ、代わりにブラスバンド部に入った。

いずれにしても音楽からは離れなかったわけだ。ブラスバンド部では花形のトランペットを選んだ。目立ちたがりだったことは認める。が、私には決定的に不得意なことがあった。それは集団行動ができない、ということだった。ペットはそこそこ吹けるようになったのだが。

団体の構成員のひとりとして人と足並みをそろえてなにかをやる、ということに決定的な適正を欠いていた私は、せっかくトランペットが多少吹けるようになったのに、ブラスバンドが嫌になって、中学2年生になる前にやめてしまった。そのかわり、音楽を聴くようになっていた。

中学に入ったとき、まさか策略ではないとは思うのだが、音楽好きの父親がレコードを聴くためにステレオセットを買った。当時はまだまだ一般家庭にステレオセットは普及しておらず、珍しいものだったと思う。そして私にも聴いてもいいと、LPレコードも何枚か買った。

レコードはポピュラーなクラシック曲ばかりで、たとえばカラヤン指揮・ベートーベンの交響曲第5番、ベーム指揮・チャイコフスキーの悲愴協奏曲やピアノ協奏曲、安川加寿子のピアノ小品集といったものだった。それしかないものだから、繰り返し繰り返し聴くのだ。

ピアノを習っていた小学生のころには、音楽のことなどなにもわからなかったけれど、いったんレッスンから離れてみると、音楽のおもしろさがなんとなくわかりかけてきていた。ブラスバンドでいろいろなピアノ以外の曲に接したこともよかったのかもしれない。

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