2010年7月2日金曜日

明日のライブの当日パンフに掲載する挨拶文

明日の夜、羽根木の家で開催されるライブ「トワイライト・ストーリーズ」の当日パンフレット(といっても簡単なものだが)に掲載するための挨拶文を書いた。

本日は現代朗読協会「羽根木の家」にお越しいただきありがとうございます。
今日のライブは5月からスタートした「朗読はライブだ!」ワークショップの参加者、ベーシックコースの参加者、そして入門クラスあらため朝ゼミのメンバーによる合同イベントです。3か月をかけて全6回で1期とする「朗読はライブだ!」ワークショップは、今回で第4期となりました。4期全部に参加した者も、今期のみの参加者もいます。今期のみの参加者は朗読はおろかライブ出演すら初めて、という者もおります。
朝ゼミメンバーは1年以上参加している者もいますが、それでも朗読経験の浅い者ばかりです。
そのような者がよいライブができるのか。それはご覧になっていただいて、皆さんがそれぞれ感じることでしょう。ただ、私がこのようなことをわざわざ書いているには理由があります。

現代朗読協会では、朗読に限らず、ひと前でなにかを表現するとき、これまでの表現とはまったく異なったやりかたを試みています。
私たちや皆さんも慣れしたしんでいる従来型のライブイベントでは、普通、出演者が練習によって獲得してきた技術や表現力、たび重なるリハーサルで仕組まれた複雑な段取りなどを見せようとすることがほとんどです。これはこれで素晴らしいパフォーマンスの発表方法であり、私もそれを否定するものではありませんが、ここにはどうしても出演者対観客の間に上下関係が生まれます。つまり、出演者は自分たちの技量やパフォーマンスを観客に誇示することでイベントを成立させるわけです。

そうではなく、ありのままの人同士が上下関係ではない共感関係を作ることで、なにかを共有する場を作ることはできないか。なにも特別な人だけが表現者になれるのではない。だれもが表現し、だれもが表現者として感動を生む場を作れるはずだ。
これが現代朗読協会の考え方です。
これはじつはまったく特別な考え方ではありません。20世紀に入ってから生まれたコンテンポラリーアート(現代芸術)の世界ではごく普通に受け入れられている考え方です。朗読の世界にもこの考え方を取りいれているのが、現代朗読のゆえんです。
今日のライブもそうですが、出演者はけっして自分の「技術」を誇示したり、決められた「段取り」を守ろうとはしません。じつはもっと難しいことに挑戦しています。それは、作られない、たくらまない、ありのままの自分を皆さんの前に提示し、共感を共有できないかという試みです。
なので皆さんは、技術を評価するのではなく、出演者の声や身体や心のありようそのままを感じてみてください。なにが読まれているのかではなく(いえ、もちろんそれも大事なんですけど)、どう読まれているのかに耳を傾けてみてください。そうすれば、出演者と皆さんが、いま、ここに、時間と空間を共有し、朗読という表現でなにかを共に感じ合う体験を、お互いに持つことができるかもしれません。
それが私たちの望みです。