2010年7月28日水曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.26

それとおなじことが、「表現」という人間関係の枠組みでもいえる。「私はこれだけのパフォーマンスをあなたに対しておこなった。ついては、これだけの対価をお願いしたい」という要求がうまくいくだろうか。うまくいくとしたら、限定的なパフォーマンスについてのみである。

観客に自分の技術を見せつけ、優位性を誇示するようなパフォーマンス。これについては、技術力であるとか優位性を数値的に明示することが可能なので、それを「対価」という金銭価値に置き換えることはできる。が、現代芸術表現では「共感」や「関係性」がキーワードだ。

なので、パフォーマンス自体に価値判断をつけることはしない。それより、共感や関係性を作るための「場」を成立させるための「経費」として入場料をお願いする、という考え方だ。現代朗読協会のゼミやワークショップでも、同様の考え方が徐々に導入されていった。

体験ワークショップにやってきた多くが、ごく一般の人や、朗読を仕事としては考えていない人たちだった。たとえば、若いころ演劇や音楽をやっていたけれど、子育てや仕事に終われ自分を表現することから離れていた。あらためて表現してみたくなった、という人。

あるいはカルチャーセンターなどの朗読教室に通っていたが、なにか物足りなくて現代朗読協会のホームページを見てやってきた、という人。また、YouTubeで公開しているライブ映像を見て参加したくなった、という人。多くの人が朗読行為を収入源とは考えていない。

あるいはカルチャーセンターなどの朗読教室に通っていたが、なにか物足りなくて現代朗読協会のホームページを見てやってきた、という人。また、YouTubeで公開しているライブ映像を見て参加したくなった、という人。多くの人が朗読行為を収入源とは考えていない。

そういう人たちのことを、私は「朗読家」と呼ぶ。朗読することが生活の中心になっている人のこと。重ねて述べるが、朗読することで「収入を得てそれで生活する」人のことではない。歌を歌う、詩や小説を書く、絵を描く、踊る、そういう表現が生活の中心になっている人だ。

主婦の朗読家がいる。子育て中のお母さん朗読家がいる。サラリーマン朗読家がいる。学生朗読家がいる。自営業朗読家もいる。彼らは生活の糧を仕事で確保しながら、自分自身を朗読で表現することが毎日の中心になっており、またそのことで自分を高めようとしている。

これは朗読に限らないことだが、表現を生活の中心として意識しはじめた人は生活そのものが一変する。人や自分自身の観察、コミュニケーションの内容、日々の気づき、身体と精神のメンテナンス、読書をはじめとするさまざまな勉強、そういったことが生活の中に入ってくる。

よく朗読とナレーションの違いってなんですか、と訊かれることがある。行為機能の違いはもちろんあるのだが、それとは別に、行為に向かう気構えが違っていることを見るとわかりやすい。たとえばナレーターは仕事の依頼が来てはじめて文章を読むが、朗読家はそうではない。

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