2010年7月30日金曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.27

仕事の依頼があろうがなかろうが、公演があろうがなかろうが、日常的になにかを朗読している。なにも目的がなくても、そこらへんにある本や雑誌を手にとり、朗読する。聴いてくれる人がいてもいなくても、とにかく朗読する。それは目的ではなく、生き方なのだ。

おおげさなようだが、朗読以外の世界にはそういう人はたくさんいる。仕事の依頼が来てはじめて筆をとるのはイラストレーターやデザイナーだが、依頼がこなくても日常的に筆を動かしているのが絵描きだ。依頼が来てはじめて書きはじめるのはライターだが、詩人や小説家は?

現代朗読協会の体験ワークショップには、そのように生活の中心に「仕事」ではなく、「表現」を持ちこみたいという潜在的な願望を持った人たちがやってきた。現代朗読の考え方に共感した人はそのまま正会員(ゼミ生)として残り、互いに切磋琢磨していった。

朗読で対価を得ることをめざさないゼミ生が増えるにつれ、協会の空気そのものが大きく変わっていった。それまでの「仕事」に生かすための「技術」とか「表現力」を身につけることを目的に「対価を支払っただけの見返り」を求めて来ていた人たちが急に来なくなっていった。

声の仕事者向けではなく一般向けに体験ワークショップをスタートしておよそ半年から一年で、ゼミ生の顔ぶれはほぼ完全に入れ替わってしまった。そしてこのことが現代朗読協会の現在の内容と進むべき方向性を決定づけたといえる。それは大変画期的なことだった。

そして幸福なことでもあった。ここでいう「幸福」とは、次のような意味である。本来、表現の世界には「競争」や「評価」や「価値判断」や「上下関係」はない。と書くと「そうではないだろう」という反論が多く出るだろうが、反論は古い価値観から出ていることを認識したい。

芸術や表現の人間の歴史は、東西を問わず、一貫して「芸術家や作品の優位性を高める」歴史であった。芸術家のパフォーマンスや作品が、余人の追従を許さない緻密で高技術なものであればあるほど、それは利用価値の高いものになる。なんに利用されたのか?

芸術家が裕福になることはもちろんだが、それ以上に国家や宗教家、資本家といった社会システムの上層にいる人々に利用されたのだ。中世以前は宗教と貴族に。ルネッサンス以降は商人など富裕層に。産業革命以降は資本家と全体主義国家に。それが19世紀まで続いていた。

芸術家たちは宗教や貴族や国家や金持ちの庇護を受け、生活を保障されるかわりに、その作品やパフォーマンスを権力誇示のために利用されていた。ダ・ヴィンチはもちろん、バッハやモーツァルトですら、教会や貴族の庇護がなければ作品を生み出せなかったのだ。

芸術表現をおこなう者は、ながらく、特権階級の一部に属していた(特権階級そのものではない)。そして彼らが切磋琢磨する目的は、みずからの表現技術をだれにも及ばないような高度なものに磨き上げ、余人の追従を許さないような高みをめざすことであった。

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