2010年8月31日火曜日

ZenVC(禅VC)が観音フェスティバルに出展・出演!

を〈NVC@羽根木の家〉のほうに書きこみました。
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2010年8月27日金曜日

ヒンドゥー五千回「モーリタニアの夜はふざける」

扇田拓也主宰の劇団・ヒンドゥー五千回の公演を観に行ってきた。
いやー、おもしろかった。
それにしても、変な名前の劇団だ。名前の由来は説明してもらって知っているのだが、面倒なので書かない。
扇田くんは先日、坂口安吾の『堕落論』をオーディオブック収録してもらった。すばらしい朗読だった。はやくマスタリングを終えたい。
扇田くんは石村みかさんの旦那さんであり、石村みかさんは来月9月19日に私の「特殊相対性の女」に出演してくれる女優さんだ。
今日行ったら、客席整理の手伝いをしていて、ひとりでがんばっていた。膝の悪い私のために特設席を作ってくれたりして、とてもありがたかった。

てな前置きはこのくらいにして、肝心の公演の内容。
そもそもふざけたタイトルだが、内容も実にふざけたシュールなもの。舞台は砂を敷いて破れた天井を作っただけ、という装置。始まるとそこに扇田くんが仰向けに寝ている。どうやら深い眠りについているらしい。
扇田くんは最後までひとこともセリフがなく、ほんとに最後のほうでみじかいセリフがあるのみ。観客は、結局そのセリフを成立させるためにこの芝居があったのだ、ということに気づくのだが、それは最後のほうまで来るまでわからない。
男ばかり何人かの役者が、どこともわからない場所で、なにとも知れない仕事のために共同生活をしているらしい。が、彼らの行動には脈絡がなく、実に不可解である。かといって、それが最後に明らかになるということでもない。
彼らの行動は、私たち自身に投げかけられていて、私たちの人生の不条理、滑稽、怒り、悲しみ、暴力、共感、笑い、好奇心など、すべてをあらわしている。
「意味をかんがえるんじゃない。意味なんかないんだから」というセリフが、だれかの行動に向けて何度も発せられるのだが、それは結局、人生そのものに向けられていることに気づかされる。
しかし、最後の最後で扇田くんのセリフが突如として立ちあらわれ、私たちの胸をえぐる。
「考えろ。考えぬけ。意味がわからなくても考えろ」
それが人間であり、私たちはそれしか生きる方法がないのだと突きつけられたような気がする。

テーマは重いが、それをじつに非現実的ともいえる軽さをもって作り、演出したのは、まさに扇田拓也という劇作家の風味なのだろう。とても魅力的だ。
これを「演劇」というメディアで表現する必然性があったのかどうかは別として、この1時間40分を出演者たちとともに大いに楽しませて(生きさせて)もらったことは確かなことである。

2010年8月25日水曜日

羽根木ラジオの第3回が公開されました

小梅ゆかりさんが〈NVC@羽根木の家〉のほうで羽根木ラジオを公開してくれました。
⇒ こちら

2010年8月24日火曜日

今日とどいた本:キーワード 現代の教育学

まだ最初のほうを読んだだけだが、なかなかの良書と思われる。
第一章の「言語——記号からメディアへ」のなかに、かつては言語がたんなる記号として教育において軽視されてきた経緯があるが、いまは「メディア」として認識されていて、個々の子どもの自発的な表現欲求にたいして形を与えうるものとして考えられている、という前提をしめしたあとで、このようなことを書いている。

「それは自発性の解放ではあるが、同時に自発性を挑発し自発性そのものを教育的にコントロール可能にする試みでもあった。言語は、子どもの自発性そのものを構築可能にするためのメディアとして投入されることになる」

このように非常に示唆に富んだ考察が豊富に展開されていて、刺激的だ。
現代朗読協会も一種の「学びの場」としてあるので、このような最新の教育論は非常に有益だ。
読みすすんだらまた内容を紹介したい。

 『キーワード 現代の教育学』田中智志・今井康雄/東京大学出版会


2010年8月23日月曜日

下北沢・音倉での「蜘蛛の糸」と「猫朗読」ライブ映像3本

2010年8月21日におこなわれた下北沢〈Com.Cafe 音倉〉のオープンマイクイベントに、現代朗読協会のメンバーが参戦しました。
まずは芥川龍之介「蜘蛛の糸」
朗読はまぁや、玻瑠あつこ、野々宮卯妙の3人。
おなじみの作品が、現代朗読ならではの即興性のある動きをまじえた朗読パフォーマンスになっています。抜粋映像です。

つづいて、嶋村美希子による詩の朗読。
作品は萩原朔太郎「猫」
ちょっと色っぽいです。

もう一本は、嶋村美希子と照井数男による水城ゆうの「サウンドスケッチ」シリーズの作品のデュオ朗読。
作品は「Cat's Christmas」
照井数男の子猫ちゃんがなんともグロい。
ピアノはいずれも水城ゆうです。

ほかにもこの日のオープンマイクの映像がありますが、順次公開していきます。

2010年8月22日日曜日

下北沢〈音倉〉オープンマイクに参加した

2010年8月21日、土曜日。
下北沢のライブスペース〈Com.Cafe 音倉〉のオープンマイクイベントに、現代朗読協会のメンバー何人かとOeufs(うふ)で出演してきた。
ここは1組15分枠で区切られていて、私たちは3枠もらった。

1. 芥川龍之介「蜘蛛の糸」の現代朗読
朗読:まぁや、玻瑠あつこ、野々宮卯妙

2. Oeufs(うふ)による「Summertime」「浜辺の歌」「ヒガンバナ」
うた:伊藤さやか

3. 萩原朔太郎「猫」〜水城ゆう「Cat's Christmas」「Cat Plane」
朗読:嶋村美希子、照井数男

午後2時、いつもの昼ゼミ枠に朗読参加者がやってくる。ふなっちもゼミに参加。丸さんも手伝いに来てくれた。
気づき報告のあと、おもに「蜘蛛の糸」を中心にリハーサルをする。
丸さんが差し入れてくれたおいしい北海道のメロンをいただく。2玉あって、みんなで堪能。元気をつけて、いざ5時半すぎに〈音倉〉に向かう。丸さんが車を出してくれた。といっても、〈音倉〉は徒歩10分とごく近いので、歩き組も。「蜘蛛の糸」組が浴衣に着替えたので、彼女らと私が同乗させてもらう。
丸さんには今回も、車だけでなく、撮影など協力してもらって多謝。

午後6時に店に入ると、すでに他の出演者も何組か来ていた。今回も私たち以外は全員音楽らしく、私たちも含めて8組が出演するようだ。
6時半スタート。お客さんも来てくれた。バンガードさんが奥さんを連れていらしてくれた。豊津さんがお友だちを連れて。ほかにもシマムラが自分のブログやmixiでたくさん告知してくれたので、知り合いが何人も来てくれていた。

最初はインドのチャントを歌う女性がひとり。バックの映像に友人による点描の曼荼羅を映しだしながら、カラオケで歌う。
2組めは若い女性歌手とおじさんのピアノという、ちょっと前の秀恵ちゃんと私のコンビを連想させる人たち。で、一曲めにいきなり「浜辺の歌」をやったのでびっくりしたが、まあOeufs(うふ)とはまったくキャラクターも演奏もかぶらないのでよかった。あとはオリジナルナンバー。
3組めはピアノの弾き語りの女性。なかなかうまかった。技術的には。
4組めは大学生の男の子のギターの弾き語り。まったくへたくそな子なのだが、それがかえってオープンマイクらしくてよかった。そして音楽は奇妙なことに、技術が身につければつけるほど個性は消えがちになる。なので、彼は逆にほほえましかったのである。といっても、彼が音楽に向いているかどうかという話になると別なのだが。

いよいよ我々の番。まずは浴衣の3人組。
まずはまぁやがひとりステージに座り、「いかにも」な朗読スタイルで「蜘蛛の糸」を語りはじめる。これはわざと。で、観客も案の定、「ああ、朗読ね」という顔をしている。
そこへいきなり、玻瑠さんと野々宮が「注釈読み」で乱入。そこからは入れ替わり立ち代わりの即興的な現代朗読がはじまって、観客のなかにはポカンとしている人もいた。もちろん楽しんでくれている人がたくさん。
音楽好きな人は、ほぼ現代朗読も好きになってくれる。これはこれまでの経験でいえることなのだ。

あっという間に15分の「蜘蛛の糸」が終わり、野々宮が9月19日の「特殊相対性の女」の告知やら、現代朗読協会についての説明をみじかくしたあとは、ひさしぶりのOeufs(うふ)の登場。
1曲めはスタンダードナンバーの「Summertime」。通常とは違う8分の6拍子でやる。1年近いイギリス留学で力をつけてきた伊藤さやかが、堂々とジャジーに歌う。
が、もちろんこれがOeufs(うふ)の色ではない。次は唱歌の「浜辺の歌」。とても難しいスローなテンポでゆったりし、そしてメロディと音の感触を味わうようにじっくりとやる。
最後はオリジナルナンバーの「ヒガンバナ」。げろきょのメンバーにもお客さんにもとても好評で、ジンときた、という感想もいただいた。

Oeufs(うふ)の再起動はうまくいった。
我々の最後の組は嶋村美希子と照井数男の若手ふたり組による「猫」朗読。
まずは猫耳をつけたシマムラがひとり出て、萩原朔太郎の「猫」をひとりでやる。前後ろを反対に置いた椅子の上に乗っかり、エロかわいく詩を読む。ここでも観客は釘付け。
次に照井数男が出て、猫耳をシマムラにつけてもらい、「Cat's Christmas」をふたりで読む。どの部分をだれが読むかというのは決めていない。ふたりの呼吸でやりとりする現代朗読だ。子猫のかわいい「好き、ご主人様」というセリフを照井の野太い声でやられるのは、実にキモい。
最後はふたたびシマムラひとり。「Cat Plane」という、ある意味非常にアブナい内容の私の詩を、緩急をつけて一気に読みきった。ピアノとのからみもしっかりやれて、まさに疾走するようなフレッシュな現代朗読となった。

全員、終了。あとはほっとひと息ついて、飲んだり食べたり。
私たちのあとにはもうひとり、ピアノの弾き語りの女性が歌を歌って、この日のオープンマイクイベントはすべて終了。
私はずっと出ずっぱりだったのでかなり疲れたけれど、大変心地よい疲れだった。

9時に店を出て、ふたたび丸さんの車で羽根木の家まで連れて帰ってもらい、みんなでほっこり。
いろいろ感想をいいあって、11時近くにようやく解散となった。
みんな、お疲れさん。
ご来場いただいた方々にも感謝します。

朗読の聴き方

朗読する方については(私を含め)いろいろな人がいろいろなことを書いているけれど、聴き方についてはほとんど書かれたものがないので、書いてみようと思う。
そもそも「朗読に聴き方なんて必要あるの?」という疑問はあると思う。まずそれについて答えておく。

音楽だと「クラシック音楽の聴き方」とか「ジャズの聴き方」といった本はたくさんある。また「演劇鑑賞法」だの「現代美術鑑賞法」といったものもある。ほとんどの表現芸術について、オーディエンスの側からどのように接すればいいのか解説したものがたくさんある。
ところが、朗読についていえば、鑑賞法について書かれたものはまったくといっていいほどない。需要がない、といわれればそれまでかもしれないが、需要というものは作られるものである。つまり、その需要を作る努力を表現者側がおこなっていない、ということであろう。
ではなぜ朗読者は、朗読観賞という需要を作る努力をしていないのか。それは自分たちのおこなっていることを「表現芸術」と認識していないからだ。芸術とまでいわなくても、芸能ですら奥の深いものには鑑賞法が提供されている。歌舞伎や落語などがその例としてあげられる。朗読は芸能程度の認識すら表現者側にないといえる。
鑑賞法が必要のないものには、たとえばサーカスとかボクシングとか(これとてある程度はあるだろうが)、オーディエンス側が純粋に受取手であり、表現側が純粋に娯楽サービスの提供者である場合にそのような傾向になる。
朗読行為は娯楽サービスや、ストーリーの提供であって、表現行為ではないという暗黙の認識が朗読者側にまだまだあるように思われる。娯楽サービスやストーリーの提供であるならば、その鑑賞法などは必要ない。鑑賞者はただ気楽にサービスを受容するだけだからだ。
いま、朗読者側は「こんなふうに聴いてほしい」というアピールを多くのオーディエンスに対しておこなっていったほうがいいのではないか、と私は考えている。でなければ、日本の朗読はいつまでたっても「堅苦しく退屈なイメージ」から抜け出せないだろう。

朗読に限らず、すべての表現は、そのジャンルに習熟した聴き手があらわれることで、広がりと深みを増していく。
音楽を例にとればわかるだろう。たとえばクラシック音楽の場合、生まれつき曲や演奏のすばらしさがわかる人はいない。繰り返しよい演奏を聴くことで耳が育っていく。
よい演奏にはどうやってめぐりあうのだろう。
自分より先に音楽のよさに目覚めた人に教えてもらうのだ。友人であったり親兄弟であったり、ときには音楽評論家であったりするかもしれない。とにかく、「これはよい演奏ですよ」という指摘を受けて耳を傾けることになる。繰り返しそのようなことをおこなっていくうちに、自分でもよい演奏かそうでない演奏かを聴き分けられるようになる。すると楽しみはさらに深まっていく。そういう体験はだれもが持っているのではないだろうか。朗読もそれとおなじことがいえると思う。
ところが、いまの日本の朗読の楽しみ方というのは、芸術観賞にはほど遠い、非常に偏った方法になっている。
偏りの第一。オーディエンスは「朗読」を楽しむのではなく「ストーリー」を楽しむために朗読会に来ている、という事実がある。
音楽会の場合、演奏されるのが「どんな曲なのか」を聴きに来る人はほとんどいない。その曲が「どのように演奏されるのか」という期待を持って聴衆は楽しみに来るのだ。ところが、朗読会の場合、朗読されるのが「どんな作品なのか」ということに関心が集まることが多い。その作品がどのように読まれるのか、朗読者はその作品をどのように読む人なのか、という関心が持たれることはほとんどない。つまり朗読という行為が「表現」ではなく、ただの「伝達」だと思われているからにほかならないだろう。その状況がいまだにつづいている。
伝達するだけなら、本そのものを読んでもらえばすむことだ。また最近はすぐれた音読ソフトが安価になってきているから、視覚に障碍を持っているような方もそれを使えばよい。音訳ボランティアというものがあるが、人の手をわずらわせずとも、ソフトウェアに任せていけばいい。
そのかわり、人は人にしかできないことをやるのだ。すなわち表現であり、コミュニケーションである。朗読がすぐれた表現行為であることを、いま、正しく人々に伝えたいと思う。そのためのオーディエンスがまだまだ育っていない以上、朗読者自身が発言していきたい。

朗読はどのように聴けばいいのだろうか。
朗読は表現である。人の行為である。また、表現者とオーディエンスの間に生まれるコミュニケーションである。これは音楽やダンスや美術や文学などの他表現芸術となんら変わりはない。表現とは、人間自身を表現することである。
聴き手は表現に接して、その表現者がなにをどのように表現しようとしているのか、全身で感じるようにしたい。上手いとか下手とか、そんなことはどうでもいい。たとえばピカソの絵に接して上手い/下手を問題にする人がいるだろうか。それより、表現者自身を感じたい。
表現者の存在を感じるということは、自分自身の存在を感じることでもある。表現者を鏡にして、自分の存在を確認することができる。また、表現を自分がどのように受け取るのか、あらたな発見がそこにある。表現に接することは、自分自身の発見の旅でもある。
自分自身を見つけるためにも、ぜひとも朗読ライブや公演に足を運んでほしい。そして、「なにが語られているのか」ではなく、「どのように語られているのか」にぜひとも注視してほしい。するとこれまでの朗読会ではまったく見えなかったことが見えてくるはずだ。
私たちも朗読を実演するだけでなく、どのように朗読がおこなわれているのか、私たちはなにを伝えようとして朗読しているのか、など、さまざまなことを努力して発信していきたいと思っている。お付き合いいただければ幸いである。

2010年8月21日土曜日

今夜の音倉オープンマイク出演者ビデオ

出演者ビデオ(1)
野々宮卯妙朗読「砂時計」。水城作。
2年半前の豪徳寺ドルチェスタジオでのライブ映像。これを見て「日本にも現代朗読があったんだ」といって訪ねて来てくれた方もいる。
私が若いな(笑)。

出演者ビデオ(2)
野々宮卯妙による「Lookin' Up」(水城作)と、照井数男によるキャバクラのPR誌の同時朗読(ツインロードク)です。まずは聴いたこともないような不思議な雰囲気です。
今年の念頭の中野ピグノーズライブより。

出演者ビデオ(3)
玻瑠あつこ(当時は熊谷敦子)出演の「漱石の夢」ライブ。漱石作品を構成した群読で、玻瑠あつこは夢十夜の第十夜をおもに担当。野々宮卯妙ほかとともに。

出演者ビデオ(4)
昨年おこなった「メイドたちの航海」の抜粋。嶋村美希子が「階段」というエピソードで冒頭に登場。
出演者が全員女性、メイド服のコスプレで朗読するという、話題沸騰の朗読ライブでした。

出演者ビデオ(5)
伊藤さやかと水城による音楽ユニットOeufs(うふ)の「わらべうた・うさぎ」の演奏とトークです。
ひさしぶりに見たけど、トークおもろっ! これがうふですなー。月面探査の話から生命倫理、音楽理論の話まで、後半もどうぞ。

鰹の変わりヅケ丼

刺身用の生の鰹のサクを買ってくる。驚くほど安いことがある。ちなみに今年は海水温の関係でサンマが不漁。高いらしい。
鰹のサクをザクザクと適当に切り、ボウルに放りこむ。そこへショウガをすりおろして絞った汁(小さじ1)を垂らす。
さらに醤油大さじ2、みりん大さじ1を加え、手で混ぜあわせる。
これを味がしみるまで10分くらい置く。
暖かいご飯を丼に盛り、その上に味をつけた鰹を散らす。
その上にさらにオニオンスライスを散らす。
マヨネーズをお好みで回しかけ、黒こしょうをかける。
マヨネーズの代わりにオリーブ油でもいいかも。
ちょっと洋風な味付けをして、いかにも「ヅケ丼」といった風味を少し変えてみました。超簡単、しかもけっこうイケますよ。

禅の膳ダイエット

ロードク娘の嶋村美希子がダイエットをするというので、「禅の膳ダイエット」をすすめてみた。
これは禅僧の食事法を実践するだけで体重が適性にもどる、というものだ。実に簡単なのだが、現代的生活習慣にまみれてしまった私たちが実践するのは、案外むずかしい。
禅僧の食事はご存知のように、一汁一菜の精進料理だ。不殺生のために肉、魚、玉子類は食べない。また、ニラやニンニクなどにおいの強いものも食べない。しかし、食材そのものを禅僧のようにするのはなかなか難しい。精進料理だけでは現代人は物足りなさを感じてしまう。なので、まずは食べ方から真似してみる。

いろいろな作法があるのだが、まずはひとつだけ実践してみよう。それは「ひと口ずつ箸を置く」というものだ。
なにか口に入れたら、そのつど箸を箸置きにもどす。口にいれた食べ物をゆっくりと噛んで味わう。
口のなかの食べ物が完全になくなったら、箸を取り、次の食べ物を取る。おかずとご飯を一度に口にいれることもしない。それぞれひと品ずつ、ゆっくりと味わいながら食べるのだ。これは時間のかかることだが、禅僧はみんなそうやって食べている。
この食べ方で適性体重になるというのは、理にかなっている。ゆっくり食べることで、満腹中枢が正常に働き、身体は必要以上を欲しない。
人の身体は必要な栄養分を必要なだけ摂取するような生理を持っている。それが正常に働かないのは、つまり太るのは、なんらかの阻害要因がある。時間にせき立てられて大急ぎで食べてしまう習慣が身についてしまっていたり、栄養過多や濃い味のものばかり食べるせいで味覚が麻痺してしまっていたり、といったことだ。そのせいで身体が「どのくらいが自分の適性な摂取量なのか」についての判断ができなくなってしまっている。
せめて、まずは食べるスピードをゆっくりにしてみる。そのために禅僧の食べ方、ひと口食べてはそのたびに箸を置き、ゆっくりと噛んで味わう、という方法が有効だ。それができるようになると、食べ物の本来の味がとてもしっかりとわかるようになる。米の味、豆の味、野菜の味。
食べ物本来の味がわかってくると、過剰な味付けのおかずや加工食品、添加物の多い食品は口にしたくなくなってくる。それはまた身体やこころの健康にもよいことになる。
必要ならば動物性の食品を断つことも可能になるだろう。それはまた地球にやさしい人になることでもある。なぜなら、私たち現代人は、人が食べることができる穀物を家畜に与えて肉を育て、それを食べているからだ。穀物を家畜に与えず、つまり肉食をせず、人が穀物を食べるようにすれば、世界の飢餓人口はゼロになる。
さまざまなことが、私たちの食事にも関わっている。

2010年8月20日金曜日

「クオリティが高い」とはどういうことか?

「アイ文庫はクオリティの高いオーディオブック制作をおこなっている会社です」
というツイートが、ときどきアイ文庫ツイッター(@iBunko)で流れてくる。botでランダムに配信しているツイートの一節なのだが、ある者から、
「クオリティが高いとはどういうことなのか、定義して」
といわれて、絶句してしまったことがある。
絶句した、というのは、つまり、うまく説明できなかったからだ。
ところが、ときどき流れてくるこのツイートをながめていて、ついいましがた、ハッと気づいた。
うまく説明できなかった、という事実こそ、クオリティという言葉の本質を表しているのではないか。

クオリティというのは、英語の「quality」で、日本語の意味は「品質、性質」といったことになるだろう。
この言葉自体に「品質が高いこと」を含んでいる。だから「クオリティが高い」というのはダブルミーニングかもしれない。
最近は茂木健一郎などによって「クオリア」という言葉が有名になった。

私たちがなにかに向かって「これはクオリティがいい」というとき、感覚はどんな働きをしているのだろうか。
たとえば、ワイン。
ワイン通の人はたんに「おいしい」「まずい」という表現だけではなく、「クオリティ」を問題にする。クオリティ=品質を問題にするとき、そこには自分の「好み」は極力排除されているように見える。彼らはなにか客観的基準を想定して、クオリティの評価をくだしているように見える。
その客観的基準とはなんだろう。
ここがやっかいだと思うのだが、ワイン通の人にはワイン通の人にしか通用しない客観的基準があって、それはある言葉や情報単位でワイン通以外の人に説明することは難しい。あるいは不可能だ。私はワイン通ではないので、ワイン通の人が「このワインはクオリティが高い」と判断したとき、それを味わってみてそのとおりかどうか確認することができない。私のなかにはワイン通の人たちが持っている共通の客観的基準がないからだ。しかし、ワイン通の人たちの間では、まちがいなく、それはクオリティが高いと共通に認識することができるのだ。
では、その客観的基準はどうやったら獲得することができるのか。ワイン通の人たちはどうやって共通の客観的基準を獲得できたのか。
答えはひとつしかない。ワインの世界にどっぷりと我が身を浸してみるしか、それを獲得する方法はないのだ。
これはワインの世界だけでなく、日本食であったりフランス料理であったり、あるいはクラシック音楽であったりジャズであったり、フィギュアスケートであったり、現代美術であったり古美術であったり、さまざまな世界に共通にあることだ。もちろん朗読やオーディオブックの世界にもある。

クオリティの良し悪しは、その世界にどっぷり浸っていない人に対してその客観的基準を説明することは不可能である。
アイ文庫のオーディオブックはクオリティが高い、ということの理由を、オーディオブックを聴いたこともない人はもちろんのこと、どっぷりと浸って聴きこんでいない人に対して説明するのは不可能といっていい。
だから、冒頭のツイートは、オーディオブックにどっぷりとはまっている人に向かってのみつぶやかれている「排他的ツイート」ということができるかもしれない。
アイ文庫のオーディオブックはクオリティが高いのだ、ということを多くの人にわかってもらうには、オーディオブックにどっぷりとはまってしまう人をどんどん増やすしか方法がないのである。

ウェルバ・アクトゥス・アート「ミニライブ・祈り911〜Ginga」のお知らせ

を〈ウェルバ・アクトゥス2010〉のほうに書きこみました。
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少年王者舘公演「ガラパゴス」

オーディオブックの朗読やライブ、UBunkoなどでおなじみの窪田涼子から、出演している芝居の案内をもらったので、紹介します。

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すでに始まっていますが、実は昨日から来週火曜日まで、東京は下北沢のスズナリでシバイしてます。

フシギで痛く、いとおしいコトバの渦に是非巻き込まれに来て下さい。
粗筋が、配役があるだけがシバイではないです、きっと。げろきょが好きなら、何かは必ず琴線に触れると思います。
また、今回の見所は、ダンス!どこの舞台でもコンテンポラリーダンス公演でも見られない、唯一無二の時間は名古屋・大阪公演から大絶賛です。

少年王者舘公演「ガラパゴス」

東京/ザ・スズナリにて
8月20日(金)19時半〜
  21日(土)14時〜、19時半〜
  22日(日)14時〜
  23日(月)14時〜☆、19時半〜
  24日(火)14時〜
前売3500円、当日4000円

上演時間:約1時間30分、☆は追加公演

水柊(みずき/窪田涼子)

2010年8月19日木曜日

プール

生理学に「無感温度」という言葉がある。ヒトが熱さも冷たさも感じない温度のことで、摂氏33度とわかっている。夏場の温水プールはこの温度に近い水温ではないかと思われる。
ヒトの皮膚感覚は、15度以下では痛覚神経が働く。15度を超えると冷覚神経が働きはじめる。
25度以上になると冷覚神経の働きが弱まり、温覚神経が刺激される。33度前後では冷覚神経と温覚神経がおなじくらいの働きになり、冷たさも暖かさも感じない無感温度となる。
ちなみに、45度以上になると冷覚神経と痛覚神経が働く。
最近、温泉でも、無感温度のお湯があるらしい。まだネットで調べてもほとんど出てこないが、この無感温度の水にはいると、副交感神経が働き、気持ちが落ち着いたり、癒し効果があるらしい。これとおなじ作用が、温水プールにもあるのではないか。だから私はプールに行くといい気分になって帰ってこれるのではないか。

もともと水遊びが好きだったことは、昨日の「水」の連続ツイートで書いた。
学校のプールは屋外プールで、あまりいい環境とはいえなかったが、それでも夏場は熱心に泳いだ。大学生になった初めての夏、出身高校のプールの監視員のアルバイトがあるので帰ってこいといわれた。
夏休みの一か月間、プールの監視員のアルバイトをやった。監視員はひとりだけで、気ままにやれたので楽しかった。生徒たちにプールを開放する午後、時間の少し前に行ってプールの入口の鍵をあけ、消毒用の塩素薬をいくつか放りこむ。
生徒たちがやってきたら、のんびり監視する。といっても、やることはほとんどない。後輩たちといっしょに遊んだりするだけだ。時間が来たら、生徒を追い出し、水温や浄化槽の具合を確認して日誌をつけ、それを職員室まで持っていく。雨の日などはだれも来ず、ひとり雨の波紋が広がる水面に眼から上だけ出して瞑想にふけったりした。

その後、大人になってからはしばらくプールから遠ざかっていた。京都でバンドマンをやったり、福井にもどってきてピアノの先生をやったりしていたが、そのうち小説が売れ、職業作家としての生活になった。ほとんど一日中机に座って原稿を書く生活だ。さすがに運動不足に危機感を覚えた。
そこで、通販でトレーニングマシンを買った。ボート漕ぎみたいな動作や、いろいろな筋トレ動作ができる組み立て式のマシンだ。
それが宅配便で届いた。かなり重くて、玄関にドカンと置かれたのだが、まずはそれを室内に運んで組み立てなければならない。
えいやっと持ち上げた瞬間だった。腰がグキリと鳴り、生まれてはじめてギックリ腰になった。それきり数日間、動けなくなった。もちろん、トレーニングマシンどころではない。買ったばかりのマシンはそのまま、欲しいという友人に送ってしまった。そのかわり、私は近所のプールに通うことにした。水泳は腰にいい、重力が縦にかからないので無理なく体幹を鍛えられる、という話を聞いたからだ。
幸い、近所に非常に設備の整った、しかも使用料金の安いプールができたばかりだった。それから毎日のようにプールに通い、少しずつ泳ぐ距離も伸ばしていった。
以来、ギックリ腰は二度と経験していない。
そのプールでは赤十字の指導員が来て、水難救助員の講習もあったので、受けた。何日か通わなければならない、かなりハードな講習だったが、受けてよかったと思う。なぜこれを義務教育でやらないのだろう、と思ったりもする。

東京に出てきてからはプール通いはほとんどしてなかったが、近所の中学校に温水プールができて、一定の時間帯を地区住民に開放しはじめた。ありがたいことだ。いまはこれを利用している。一回200円で、回数券を買えばもっと安い。また泳ぐ距離を伸ばしていこうと思っている。

2010年8月18日水曜日

iPhone App : 東京アメッシュ

ネットサービスにもあるが、いつもコンピューターの前に座っているわけではないので、ほぼ同等機能のiPhoneアプリを重宝している。
iPhoneではGPSで現在位置を把握しているので、近くで雨が降りはじめると警告を出してくれる。
また、雨雲の動きを60分前(ネットサービスは120分前)から再生してくれるので、わかりやすい。

今日はいきなり警告が出たので、見てみたら、私が住んでいる世田谷区にピンポイントで雨雲が発生。すぐに降りはじめた。
アメッシュで見ていると、その雲がどんどん拡大していく様子がわかって、おもしろかった。
個人がこのような情報にアクセスできる時代になった。ということは、かつてこのような情報を一元的に握っていたどこかの機関の権威が、凋落していくということなのかもしれない。

水の思い出

ひさしぶりにプールで泳いできたら、暑さが身体になじんだ気がした。
これこれ、この感じ。夏の感じ。夏休みの感じ。
この感じにはずいぶんなじみがある。子どものころからなじんだ感じだ。
生まれた家の前には九頭竜川という、すばらしい一級河川があった。まだダムはできていなかった。
いまは巨大なダムがいくつも上流にできてドブ川になってしまったが、かつては清流で、釣れる鮎の味も日本有数の最高の香りと味を誇っていた。
もちろんそれと引き換えの犠牲も払っていた。台風が来るたびに住宅や農業に大きな被害があった。それを理由に巨大ダムが作られた。
もしダムを作ることなく治水に成功していたら、いまごろ世界に誇る名河川となって、釣り客・観光客はもちろんのこと、流域に住みたい家族がたくさんやってきたことだろう。現在の技術をもってすれば、ダムを作らない治水は充分に可能だろう。しかし、もう遅い。

九頭竜川の上流で九頭竜ダムの工事が始まったのは昭和40年。私が小学校3年生のことだった。なので、私が幼いころはもちろんダムはまだなく、家の前には巨大な清流があった。
夏は水量が少なく、流れの穏やかなところをせきとめて大人たちが子どものために小さなプールを作ってくれた。
河原で素っ裸で遊ぶ白黒写真が、いまも残っている。
私はゼロ歳のときから九頭竜川で泳いでいた。しかし、それも小学校3年生までだった。ダム工事が始まると、川の水は激減し、夏は藻が繁殖し、また生活用水が流れこんでヘドロがたまり、泳ぐどころではなくなった。
小学校にはプールができた。が、いまのように近代的な設備はなく、ため池に毛の生えたような屋外プールだったため、夏休みもなかごろになるとアオコが繁茂して水は緑色になり、臭くなった。なので、私はプールより川で泳ぐほうが好きだった。
祖父が車を持っていたので、よく海に行った。
一番近い海は、三国の海水浴場で、ここはファミリー向けだ。いまでもある。また、そのすぐ西側に鷹巣海水浴場というものもある。さらに西南には越前海岸の岩場がつづいている。海岸線を東北になぞれば、塩屋海水浴場や加賀の海岸、そして石川の千里浜、能登とつづいていて、豊かな海がある。
しかし、海からそう近くはない山間部の我が家は、しばしば海に行くわけにはいかなかった。なので、山の渓流で泳ぐことになる。
こちらはまだまだ清流が残っていて、水は冷たいが岩場から飛びこんだり、魚を捕ったりして大変楽しかった。
大学に進学したとき、私はヨット部にはいった。

いまはない九頭竜川の風景を歌った故郷の曲を作った。
「青い空、白い雲」という曲で、こちらから聴くことができる。演奏はOeufs(うふ)。
歌いたい、演奏したいという方には楽譜を差し上げるので、連絡ください。

2010年8月17日火曜日

アメリカのジャズ、日本の唱歌、そしてOeufs(うふ)

今夜の中野ピグノーズでのライブ「げろきょでないと」に伊藤さやかが来てくれるので、ひさしぶりにOeufs(うふ)として音楽をやることになった。
Oeufs(うふ)を知らない人のために説明しておく。
フランス語で「玉子」という意味で、扱うのは日本の童謡、唱歌、諸外国の民謡、そしてオリジナル曲。
いずれも商業音楽ではないけれど、ずっと歌いつがれてきているものを、Oeufs(うふ)独自のアレンジをほどこして、現代曲としてリニューアルしようという方向性である。

活動を再開しようとしてあらためて気づくのだが、日本の童謡、唱歌にはすぐれて力のあるメロディが多い。世界的に見ても、現代において充分に通用する美しいメロディがたくさんある。
音楽は時代とともに進歩しているように思われているが、進歩しているのはその演奏法、アレンジ、構成、楽器、電子的な処理などであって、メロディ自体はそうそうあたらしいものが生まれるものでないことはだれもが知っていることだろう。
とくに日本の唱歌はすぐれたメロディの宝庫だ。
明治期にはいって、日本は急速な西洋化政策を推し進めたが、それは音楽教育においても同じことだった。国策として進められたのだが、もともと日本人が独自に持っているメロディ感覚に西洋的な音階や和声を持ちこんだとき、唱歌という独特の味わいのある曲が生まれた。それはおそらく、アフリカ黒人のメロディ感覚に西洋音階が合わさったとき、ジャズというユニークな音楽が生まれたことと似ている。ジャズほど劇的な革新性はなかったが、それでも日本の唱歌が世界のなかでもオリジナリティの強い楽曲であることは、我々日本人がもっと認識していいことなのではないかと思う。

正直いって、私はいまちまたにあふれかえっている商業音楽にはあきあきしている。それは国内外のものを問わない。
Oeufs(うふ)はもともと日本にあるすぐれたメロディに眼を向け、なおかつ現代でも古くさくない演奏としてよみがえらせたいと思っている。またときには、外国でも古くから歌われているメロディや、オリジナル曲も提示していきたい。けっして商業音楽という枠組みではなく。

Oeufs(うふ)の活動は、今夜の中野ピグノーズ、そして今週末21日(土)下北沢〈Com.Cafe 音倉〉のオープンマイクで再起動。
その後順次、ライブやコンテンツ展開をおこなっていく。

YouTubeのベストダウンロード数

朗読関係のライブや収録映像を「YouBunko」チャンネルに、音楽関係のライブや収録映像を「AsiaTrad」チャンネルに、それぞれYouTubeで配信している。
突然だが、そのベストダウンロード賞をここで発表したい。

YouBunkoベストダウンロード賞
「Flying Bird in the Dark」窪田涼子出演/1197views
⇒ http://www.youtube.com/watch?v=_RjGSIGCfqI

やはり「ふともも」効果であろうか。
窪田涼子は「水柊」という役者名で、いま、下北沢〈すずなり〉に少年王者館の一員として出演している。

AsiaTradベストダウンロード賞
「さくらさくら」Oeufs(うふ)/7,710+13,151=20,861views
⇒ http://www.youtube.com/watch?v=q8lTrZu_afM
⇒ http://www.youtube.com/watch?v=WdJXp-V6q3E

海外からのアクセスが多いと思われます。やはり、季節ものは強いということでしょうか。

朗読で「噛まない」方法

ツイッターで、
「朗読するとき噛んでしまう」
という悩みを聞いたので、現代朗読のワークショップでやっている方法を紹介することにした。
ワークショップでは「噛まないように読むにはどうしたらいいか」という質問をよく受ける。
読み違えたり、つっかかったりして、表現の流れがそこでとぎれる。表現の断絶が意図的なものならともかく、意図的でない場合、読み手は、「しまった」と思い、それが声と身体にあらわれてしまう。
じつは、読み手が「噛んだ」ことよりも、噛んだことによる「しまった」という身体性のほうに、むしろぎくっとする。その証拠に、噛んでも平気で、あたかも噛んだ事実などなかったかのように読みつづけている朗読者にたいして、オーディエンスはすぐにその事実を忘れてしまう。
ひょっとして噛んだことに気づかないことすらある。とはいえ、読み手としては意図的なものは別として、噛まないに越したことはない。
噛む原因はいくつかある。

(1) テキストがきちんと身体にはいっていない。
(2) 読み急ぐ。
(3) 滑舌が悪い。

興味深いことに、書いた本人(つまり著者朗読/ポエトリーリーディングなどでよくおこなわれる)ですら噛むことがある。本人が書いたのだから、そこになんと書いているのかわからないはずはなく、それでも噛むということは起こる。
著者であろうがそうでなかろうが、抽象的ないいかたになるが「テキストを身体にいれていない状態」で読んでいるからだ。著者とて、書きあげたあとは、読者/朗読者としてテキストに接することになる。その際、そのテキストが、自分が書いたものかどうかはあまり関係ない。あらためてテキストを「読みなおす」必要がある。
いうまでもないが、自分が書いたものではないテキストを読む朗読者は、テキストをあらためて念入りに「読みなおす」。それとおなじことが著者自身にも必要になるということだ。その逆のこともまた有効だ。
自分が書いたものでない他人が書いたテキストを読む場合でも、あたかもそれが自分が書いたテキストであるかのように念入りに接するのは、朗読者にとって非常に有効である。そもそも、どんな「テキスト」も、それが書かれ、生まれた瞬間がある。

「親譲りの無鉄砲で、子どもの時から損ばかりしていた」
これは夏目漱石の『坊っちゃん』の冒頭部分だが、このテキストもまた、夏目漱石がそれを原稿用紙に書きつけた瞬間があり、まさにそのときに生まれたのだ。
その誕生の瞬間のことをイメージしてみよう。
ペンが原稿用紙の上を走り、文字を書きつけていくそのイメージ。あたかも自分がそれをおこなっているように想像し、その身体つきを思いなぞりながら、ゆっくりとテキストを読んでみる。
まず噛まないはずだ。これは(2)の問題も自動的に解決する。

(3)の問題。
滑舌というのは、骨格と筋肉の働きによってその良否が決定される。アナウンサーやナレーターの滑舌がよいのは、訓練によって骨格と筋肉の働きがコントロールされているからだ。
もっともどんな優秀なアナウンサーでも、みずからの能力を上回ることはできない。つまり、滑舌が悪いというのは、みずからの能力を上回ってことばを流暢に話そうとするときに生じる齟齬だ。
それを解決するにはふたとおりある。みずからの能力内でゆっくり丁寧に話すか、滑舌能力をあげるためのトレーニングをするか、である。
朗読者が滑舌よく流暢にことばを発することによって得られる表現的利益は、ほとんどないと私はかんがえている。それより、自分の滑舌能力を認識し、じっくり丁寧に、それこそ「書く」かのように読むことが、伝える表現のためには効果的なのではないだろうか。

朗読の快楽/響き合う表現 目次

アイ文庫のツイッターで「朗読の快楽/響き合う表現」というドキュメントを連載中です(ハッシュタグは「#roudoku」)。それをBLOGのほうでもまとめて読めるようにしました。

創造と共感の場である「現代朗読協会」がいまの形になるまでの経緯を、私の思考過程の変遷をたどりながら正直に、誠実にたどっています。

「朗読の快楽/響き合う表現」
Vol.1 Vol.2 Vol.3 Vol.4 Vol.5 Vol.6 Vol.7 Vol.8 Vol.9 Vol.10
Vol.11 Vol.12 Vol.13 Vol.14 Vol.15 Vol.16 Vol.17 Vol.18 Vol.19 Vol.20
Vol.21 Vol.22 Vol.23 Vol.24 Vol.25 Vol.26 Vol.27 Vol.28 Vol.29 Vol.30
Vol.31 Vol.32 Vol.33 Vol.34 Vol.35 Vol.36 Vol.37 Vol.38 Vol.39 Vol.40
Vol.41 Vol.42 Vol.43

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.43

学童のための公演のほかにも、自主公演や助成公演、ライブ、ワークショップなども頻繁に開催している。すでに紹介したが、名古屋では去年に引きつづき、今年もワークショップを開催しながら、年末の公演に向けての準備が進んでいる。ベースは『銀河鉄道の夜』だ。

タイトルは「Ginga - 宮澤賢治・時と土と星 - 」、12月9日と10日に愛知芸術文化センターの小ホールでの3回公演を予定している。本拠地東京でももちろん頻繁に実施されている。去年おこなった「Kenji」は、ワークショップ経由方式で東京でもやる。

9月4日にワークショップがスタートし、ライブ本番は11月7日に下北沢〈Com.Cafe 音倉〉での2回公演を予定している。ワークショップは全6回、羽根木の家でおこなわれる。現在、参加者を募集中なので、興味がある方はコンタクトしてほしい。

コンテンボラリーアートとしての最先端への挑戦としてのライブも、時々おこなっている。今年の3月に中野plan-B というライブスペースでおこなった「沈黙の朗読 - 記憶が光速を超えるとき - 」もそうだが、直近のものでは9月19日におこなうものがある。

タイトルは「特殊相対性の女」。「(演劇+朗読)×音楽=」という惹句がついている。女優の石村みかと朗読の野々宮卯妙、私の脚本・演出・音楽、そして三木義一の映像美術というタッグで、現代アート的な表現に挑む。「沈黙の朗読」に順じた内容になるだろう。

もっと気楽なライブも定期的に開催している。中野ピグノーズというとてもこじんまりしたライブスペースで、毎月第一第三火曜日の2回、夜8時から朗読と音楽のセッションライブを開催している。毎回、飛び入り朗読やら演奏やらが入り交じって、大変楽しいライブだ。

とはいえ、このようなライブこそ現代朗読の真髄が発揮される場なので、毎回どんなことが起こるかわからない、楽しくもスリリングな場となっている。いっぷう変わった講座が、近く、あらたにスタートすることになっている。「現代朗読協会の話し方講座」がそれだ。

自分の話し方に悩みをお持ちの方は多いと感じていたが、現代朗読のワークショップでおこなっている共感的な方法がまさにそのような人の悩みを解決できる、という指摘があった。それを受けて、初めて開催することにした。朗読に興味がなくても、どなたでも気軽に受けられる。

ほかに現代朗読ゼミが頻繁に開催されているし、それらスケジュールは公式ホームページの「協会カレンダー」をご覧いただければわかるようになっている。どのイベントも参加・見学が自由なので、興味がある方は気軽においでいただきたい。ネットでも活動を見ることができる。

YouTube、Ustream、Podcastや、オーディオブックのダウンロードサイトなど、現代朗読協会の活動そのものと協会員の出演作品などが多数配信されているので、ご覧ください。皆さんと近いうちに直接お会いしたりコンタクトできることを楽しみにしてます。

(おわり)

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2010年8月16日月曜日

無料オーディオブックの連続配信、スタートしました

岩崎さとこ朗読のオーディオブック『こころ』(作:夏目漱石)の無料配信がスタートしました。
第1回はこちらから聴けます。

全10時間超の長編作品全編を、アイ文庫ツイッター(http://twitter.com/ibunko)で連続配信します。平日の毎日1回です。
アイ文庫ツイッターのフォローをお願いします。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.42

最後にいいたいのは、朗読という表現には大きな可能性がある、ということだ。その可能性について興味があり、表現することについて興味がある方は、どうぞ気軽に現代朗読協会にアクセスしてほしい。アクセス方法はいろいろある。直接来ていただくことがもちろん一番いい。

メールや電話での問い合わせも歓迎だ。また遠方の方や身体が不自由な方、事情で外出がままならない方らのためにSkypeでのやりとりにも対応しているし、Ustreamなどの放送中にチャットなどで対応することも可能だ。twitterのアカウントもある。これだが。

現代朗読協会への参加方法もいろいろある。読み聞かせの勉強のために、とやってくる人がいる。それもただ子どもに読み聞かせをしたいだけ、という人もいれば、学校や図書館で読み聞かせボランティアをやっているとか、やりたいので、という動機の人もいる。

ひとりで朗読会を開いてみたいと思っている人もいれば、みんなでひとつの舞台を作りたいと参加する人もいる。協会が関わっているさまざまなメディア/ネットラジオやYouTubeなどの映像、オーディオブックコンテンツなどを作りたいという人もいる。

いくつか朗読講座を受けてみたがどれもしっくり来なかったので、といって来られる人もいる。音楽のほうからやってくる人もいるし、ただ朗読を聴くのが好きだから、という人もいる。そういう人は「リスナー境界」などと自称して楽しんでおられたりする。

参加の形はさまざまなのだ。またさまざまな形を受け入れるようになっている。年齢もまちまちだ。他の朗読サークルなどに比べると比較的若い人が多い傾向はあるが、それでも上は60代、70代までいる。若い人も年輩の人も、区別なく参加し楽しんでおられるのが特徴だ。

現代朗読の未来のことを少し書いておこう。といっても、架空の未来の話ではなく、少し先の予定されている未来の話だ。私たちの現在から未来につながっている軸のなかで、次のような活動が予定されているという話だ。まず、学童向けのブログラムがある。

世田谷文学館と共同開催している「Kenji」および「ホームズ」という朗読プログラム。これはともに、学校の1時限内で上演できるように30分程度の長さである。これまで小中学校で上演してきた。クラス単位のこともあれば、全校対象のこともあった。地域も問わない。

もともとは世田谷区内から始まったことだが、区外にも出ているし、都外でもやる。年末には福島県の中学校で上演が予定されている。子ども向けのプログラムとしては、児童養護施設へのボランティアイベントのための「いちめんの菜の花に私はなりたい」もある。

こういった子どもたち相手の公演は、私たち自身にも本当にすばらしい経験となる。ほかでは得られない学びの場でもある。このような活動に参加してみたい、観てみたいという方は、歓迎する。いつでも私たちに加わって、現代朗読を学び、プログラムを共有してほしい。

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2010年8月15日日曜日

私が死んだら

臓器提供法が改正されて、本人の意思が書面で提示されていなくても、家族などに口頭で意思表示していたり、BLOGなどウェブサイトでその意思が確認できた場合、臓器提供ができることになった。
そこで、私もmixiのプロフィールとBLOGのプロフィールに提供してもいい旨、掲示してみた。ホームページにも掲示しようと思ったが、いま工事中であった。

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.41

話を名古屋の「Kenji V」に戻す。実際に稽古にメンバーが出てこれなくて、まともな稽古ができないことがある。そういうとき、どうすればいいか。無理に首根っこをつかまえて引っ立ててくるわけにはいかない以上、メンバーが揃わないことを想定しておくしかない。

メンバーが揃わない稽古でもやれることはいくらでもある。逆にメンバーが無理をして揃った稽古で失ってしまうことは多い。揃わなくても、積極的な気持ちで出てきた者がなにかを作っていく。それが次回稽古のときに欠席者にも伝わっていく。稽古に出たい気持ちが増していく。

それでも稽古が充分におこなえず、ミニライブの成立自体があやぶまれるときにはどうすればいいか。その場合はライブを取りやめることになるだろう。それでいいのか? いいのだ。私たちが作るのは共感を共有する場としてのライブだ。成立させるための参加者の希求が必要だ。

その希求が場を成立させるに満たなかったら、そもそもライブは成立しない。おおげさに考える必要はない。そもそもそうなったとして困る人も死ぬ人もだれもいない。私たちはだれかが困らないようにやっているのではなく、みなの望みがあるからやっているし、成立するのだ。

それは年末に予定されている大規模な公演についてもいえることだ。今年の12月上旬に、名古屋の芸術文化センターの小ホールで4回公演をおこなうことが予定されている。その規模を想定したシナリオも準備しているし、出演者もある程度の人数を予定している。

もしその公演を成立させたいという皆さんのニーズが集まらなければ、公演は流れるだけの話だ。だれにも義務はないし、責任はない。しかし、皆さんのニーズが集まって公演が成立したときには、そこはすばらしい場となるだろうし、おこなわれるパフォーマンスも期待できる。

なにしろだれひとり義務感でやっている者はおらず、全員が自分のニーズにもとづいて自発的に場に参加しているわけなのだから。そのとき、ひとりひとりの潜在能力が最大に発揮され、それらが集まって相乗効果をあげ、おそらく私ですら想像できないようなことが起こるだろう。

次になにが起こるかわからない、それが現代朗読の方法であり、コンテンポラリー表現というものだろう。次になにが起こるか予定されていること、準備されていること、準備どおりになぞろうとするのは、旧来の表現であるが、生きた私たちの交流はそのようなものではない。

と、私と、私たち現代朗読の仲間がやってきた道のこと、発見したこと、おこなったこと、そしていまおこなっていることを長々と語ってきた。私たちがおこなっているのは、旧来の「朗読」という「型」の内側から見れば、非常にわかりにくいものであることは自覚している。

また説明もしにくいものだ。なので、たくさん語ってきはしたが、十全に伝えられたかどうかというと、まったく怪しいといわざるをえない。おそらくこの文章を読んだだけでは多くの誤解が残ってしまうだろう。まだまだ書き足りないし、説明も不十分だと考えている。

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2010年8月14日土曜日

水城ゆう「Cat Plane」朗読:嶋村美希子

を〈げろきょ演出部〉のほうに書きこみました。
⇒ こちら

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.40

「Kenji V」ではタイトルが示すとおり、5名の朗読者にテキストが割り振られている。演劇だとこれが「キャスト」となり、役者は自分のセリフを覚えてステージに立つことになる。現代朗読ではそのようには考えない。全員がひとつのテキストを共有すると考える。

たしかに個人が読む部分は割り振られるが、その部分だけを練習しても意味はないという考え方だ。全員がひとつのテキストを共有し、ひとつの表現を作る。たまたま自分が読むのはその場所であるが、それ以外の場所も「読まない」だけで、表現に参加していないわけではない。

自分以外の人が読んでいる間も、自分はおなじテキストをともに体験している。おなじテキストが自分の身体のなかを流れている。その共感性・共時性がひとつの有機体としての朗読グループを作る。なので、現代朗読において「稽古」とはたんなる段取り稽古ではない。

ひとつの作品に参加し、全員でひとつの共感を作りあげる作業が、稽古ということになる。その稽古には当然ながら「〜ねばならない」という考え方はない。共感は強制からは生まれないからだ。みずから喜んで参加し、ともにおなじものを感じあうときに、作品が成立していく。

だから、稽古も「出なければならない」という考え方はなく、「出たい」という喜びを持った気持ちが生まれたときにだけ来てほしい、という考え方をしている。「出なければ」という義務感が少しでもあって、その気持ちで参加したときに、私たちの目的は阻害される。

この考え方を理解し、徹底してもらうことが、実は一番困難なことだ。とくに名古屋のメンバーは演劇や朗読ワークショップなどの参加経験者が多く、なかには劇団員に近いような人もいる。そういう人に現代朗読の考え方をきちんと理解してもらうのはとても難しい。

なぜなら、劇団や公演などの運営は「責任」とか「義務」にもとづいた考え方でなされていることが多いからだ。たとえばだれかが「仕事が忙しいので身体が疲れて稽古に来れない」といったとする。私は「自分のニーズを大事にしてください」と答えるようにしている。

しかし従来の劇団的な考え方だと、「休めば他の者に迷惑がかかる。みんな無理を押して出てきているのに、自分だけわがままで来ないなんて責任感がなさすぎる」といわれる。この責任感と義務感で作りあげられるのが、旧来の非共感的表現作品だろうと思うのだ。

私たちは自発的に表現し、それを誇示し押しつけるのではなく、共感の場を提示するだけだ。その場は義務感で作られるものではないし、もし成立しなかったからといってだれかが責任を取らなければならないような種類のものでもない。メンバーのニーズがなかっただけのことだ。

表現の場に上下関係を作らないので、トップダウンでなにか作られるわけではない。自発的で協同的・共感的なものしかない。このように述べると「宗教みたい」と揶揄する人がかならず出てくるが、私たちはたとえ似た考え方になったとしても、特定の宗教に属するものではない。

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2010年8月13日金曜日

無料オーディオブックの連続配信、スタートします!

岩崎さとこ朗読のオーディオブック『こころ』(作:夏目漱石)の無料配信がスタートします。
全10時間超の長編作品全編を、アイ文庫ツイッターで連続配信します。平日の毎日1回です。
いまのうちにアイ文庫ツイッターをフォローしておいてください。
スタートは8月16日(月)です。

2010年8月12日木曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.39

自分が無意識に身につけてしまった余分なもの、社会的な関係のなかで道筋をつけられてしまった考え方や表現方法、思いこみ、そして自分と人の関係性のあいだで邪魔をしているもの。そういったものをすべて「引き算」としてなくしていく作業。それが現代朗読の方法だ。

もっとも、これはとても難しい。やってみればわかるが、私たちがなにをするにせよ、なにを読むにせよ、いかにさまざまな思いこみや、後天的な方法論に縛られているか、ということが問題だ。立ち方や歩き方ひとつとってみても、私たちは自分らしくはおこなっていない。

たとえば小学校に入ったとき、体操の時間で私たちが真っ先に教えられるのが「行進」や「整列」のやり方だ。だれもが覚えがあると思うが、行進の練習をするとき、かならずひとりやふたりは右手と右足、左手と左足が揃って前に出てしまう子どもがいたはずだ。

そういう子を教師はどう扱ったか。「正しい歩き方」をするように「指導」したはずだ。「正しい歩き方」とはつまり、右手と左足が、左手と右足が、交互に前に出る「西洋式軍隊歩行」の方法だ。また、子どもたちが体育館に集められ、床に座るとき、どのような姿勢を取ったか。

膝を立てて脚を三角形にし、それを両腕で抱えるようにする、いわゆる「体育座り」を教えられた。いまでも私は小中学校への公演に行くたびに、教師がこの姿勢を生徒たちに指示している場面を目にする。これは昭和35年に文部省からの通達で全校に広まった推奨姿勢である。

このように、私たちの立ち姿勢、座り姿勢といえども、なんらかの恣意的な「教育」がほどこされ、いまにいたっているということを、再認識してみる必要がある。このような「姿勢教育」「身体改革」「身体改造」は、いまに始まったことではなく、近代国家の原理なのだ。

これらの分析は、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』に詳しい。朗読に限らず、みずからの自由を担保したなかでの表現をおこなっていくためには、まずはみずからがどのような不自由な監獄に閉じ込められているのか、ということの自覚/再認識からスタートする必要がある。

繰り返すがこの再認識の作業は大変な困難を極める。その実践/実験がいまの現代朗読協会であり、また名古屋ウェルバ・アクトゥスの制作現場であるといえよう。直近の経験を紹介しよう。今年のウェルバ・アクトゥスは12月に名古屋芸術文化センターでの公演を予定している。

ウェルバ・アクトゥスは劇団ではないので、参加者はその自由意志に任されている。毎月、ワークショップが開催され、12月の本公演に向けて準備が進められている。また、ワークショップそのものと本公演のプロモーションを兼ねて、毎回ミニライブが開催されている。

これまでのミニライブでは、去年の本公演の縮小版というか、オリジナル版である「Kenji V」という脚本が使われてきた。これまでに「まちの縁側MOMO」「鯔背屋」「ウェストダーツクラブ」「アクテノン野外ステージ」などで上演された。そのための練習が必要だ。

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2010年8月11日水曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.38

去年の名古屋は、全6回のワークショップで大きな舞台の準備をし、本公演まで持ちこんでしまう、しかもまったくの舞台未経験者も多く混じっている、という意味では、私にとっても初の試みだった。一種の安全策として劇団クセックの役者や音楽家をメンバーに入れておいた。

そのおかげで成功したともいえるが、安全策を取ってしまったその一点が私には心残りだった。そして助っ人がいなくても、今年はワークショップ参加者だけで舞台が成立するのではないか、という確信があった。現代朗読の方法を純粋に使って試してみたいと思っている。

いま名古屋でおこなわれているのは、年末の大きな公演に向けての準備をかねたワークショップだ。去年から参加しているメンバーと、今年あらたに参加したメンバーが混じっている。そして参加者はまだまだ募集中だ。劇団クセックの役者たちは、今年は参加していない。

今年もやはり宮澤賢治のテキストを使う。去年も一部使ったが、今年は『銀河鉄道の夜』をメインテキストとして使用するつもりで、それを再構成し、私のオリジナルなテキストも加えて、ウェルバ・アクトゥスのステージとする。この「ステージ」も去年からは大きく変わる。

そもそも「ステージ」対「客席」という位置関係に私は疑問を持っている。もちろん、演者側とオーディエンスという立場の違いはあるのだが、そこに位置関係、とくに上下の関係を持ちこみたくないのだ。ではどうするのか。今年は芸術文化センターの小ホールが予定されている。

ここは幸い、客席もステージもすべてが可動式である。ステージを全部とっぱらってしまったり、客席の組み方を自由にアレンジすることもできる。これを利用し、演者とオーディエンスが一体となった「表現の場」「共感共有の場」を作りあげたいと、私は考えている。

そのときに演者に求められるのはなにか。なにかを作りあげ、仕組み、企んで準備されたものではなく、演者そのもののありのままの身体性がそこにあること、それがもっとも重要であると私は考えている。たとえば、あるテキストを「こう読もう」と決めるための稽古ではない。

朗読や芝居の舞台準備でおこなわれていることは、ほとんどが、「作りあげる」という足し算である。こう読もう、ここではこう身体を動かす、相手がこう来たらこのように受ける。すべてを決め、絶対に失敗しないように何度も稽古して、繰り返し段取りを確認する。

そうではなく、舞台に立ち、オーディエンスと相対し、自分のドキドキやわくわくを感じたとき、初めてどのように言葉を出したくなるのか、動きたくなるのかがわかるのではないかと思うのだ。このように読みたいという気持ちに逆らって、準備してきたように読めばどうなるか。

それは一種、自分に嘘をつくことになるのではないか。また、聴き手に対しても誠実さを欠いたものになりはしないか。自分の状態、相手の表情、さらにはその場の環境、雰囲気などによって大きく変化する(はずの)表現の方向性を、自由に変えていきたい。それが現代朗読だ。

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2010年8月10日火曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.37

人見さんの呼びかけで集まったのは、マジシャン、歌手、タップダンサー、クラウン、司会者、バルーンアーティスト、書道家など、さまざまな人たちだった。雑多ではあるが、なかなか豪華なイベントである。それが今年になってからスタートし、毎月のように続いている。

私たち現代朗読協会は、小学校版「Kenji」を上演した。これはこれで喜んでもらえたのだが、終わってから私はこの子どもたちへのオリジナルな演目を用意したくなった。そこで、野々宮卯妙が有名な詩を集めてきて、構成したものに、私が演出と音楽をつけることにした。

タイトルは「いちめんの菜の花に私はなりたい」。山村暮鳥、野口雨情、中原中也、竹久夢二、萩原朔太郎、尾崎放哉、八木重吉、宮澤賢治らの詩をコラージュした作品である。それぞれすべてに動きをつけ、読み方を変え、次々と詩が現われては消えていく、というイメージだ。

出演者は5名。私も入れれば6名。羽根木の家に集まって、何度も稽古した。私たちの稽古は、なにか決めごとを作って、その段取りを確認する、というようなことはあまりやらない。もちろんそういう部分もあるが、基本的に自由で即興的な動きや読みを重視する。

しかし、自由に動いたり即興的に読みを変化させたりするためには、言葉が完全に身体のなかにはいっていなければならない。それは「暗記する」ということではない。芝居のようにセリフとして覚えることでもない。そもそも朗読は、テキストを手に持っておこなう行為だ。

暗記ではなく、テキストを身体になじませ、実体あるもののように手のなかで自在に扱えるようにしておくこと。このことが自由な読みにどうしても必要になる。それを理解してもらうことが一番やっかいで、しかしそれが現代朗読の神髄ともいえる。そのために繰り返し稽古する。

「いちめんの菜の花に私はなりたい」は6月に初演し、その後も7月に2回上演した。次は9月にやる予定だが、養護施設の子どもたちへのボランティア朗読だけでなく、自分たちの大事なオリジナル作品としていずれ独立した形での公演も考えているところだ。

東京での活動のみならず、名古屋でのワークショップも去年からつづいている。去年、名古屋で「ウェルバ・アクトゥス」と題した朗読、音楽、演劇、美術など、さまざまなジャンルの表現を融合させた舞台を上演した。その前段階として一般から参加者をつのった。

名古屋やその周辺に住んでいる方々がおもな参加者だったが、朗読や演劇の経験者もいれば、まったくの舞台未経験者もいた。そういった人が15名ほど集まり、去年は5月から毎月1回のペースで、最終舞台に向けてワークショップが開催された。現代朗読の方法が使われた。

いろいろな思い込みを捨てていくこと、つい癖でやってしまっていることを再認識し、身体の動きや言葉の使い方の自分らしさを取りもどすこと、自分の外にも人がいて世界があることを知り、感覚を開くことで世界とつながること。つながりを持った身体で表現しあうこと。

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2010年8月9日月曜日

Ustream番組「UBunko」8月3日中野ピグノーズライブ

2010年8月3日に中野ピグノーズでおこなわれたライブ「げろきょでないと Vol.18」の一部をお送りします。
この日の出演は嶋村美希子、照井数男、野々宮卯妙の3人でしたが、とくに嶋村美希子はこの日が中野ピグノーズ初ライブということで、映像も彼女をフィーチャーしております。
フレッシュでほのぼのしたキュートな彼女ならではの朗読、今後も楽しみです。ぜひご注目ください。

放送は明日8月10日(火)午後8時より。
視聴はこちらから。

あの音楽ユニット「Oeufs(うふ)」が帰ってくる!(8/21)


童謡唱歌ユニット「Oeufs(うふ)」がひさしぶりに帰ってきます!
といっても、ご存知ない方も多いと思われますので、そういう方はこちらをご覧ください。

下北沢のライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉では毎月一回のペースでオープンマイクイベントを開催しています。
こちらも1枠いただいて、3曲ほどお送りする予定です。例によって歌と演奏とトークでお楽しみください。出演は伊藤さやか(歌)と水城ゆう(ピアノ)。

◎日時 2010年8月21日(土)18:30開場(私たちは19:30から)
◎場所 Com.Cafe 音倉(下北沢)
http://www.otokura.jp/
◎料金 チャージ無料、飲食代のみ

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.36

私もそうだが、朗読を聴きに行くというと、どこか構えた気持ちになっていることがある。つまり、演者にある「評価」をくだそうという構えが、知らず知らず私のなかに生まれている。それは教育によって作られてしまったほとんど無意識の習慣のように思える。

ところが中学生たちにはそのような習慣はまだ身についていない。それどころか、大変受け身な態度でやってくる。実はそれが芸術表現を素直に受け入れるのに最適な姿勢なのだ。私たちは無防備な彼らに「意味」ではなく私たちの存在と「表現」をダイレクトに投げかける。

最初は拒否反応を示す生徒もいる。顔をそむけたり、ヤジを飛ばしたり。が、そのうちに目がらんらんと輝いてくる。こちらが自分をさらけだして、大人によくある作りこまれ用意されたものではなく、彼らとおなじ時間と空間を共有しようとする姿勢が、彼らにも伝わっていく。

その結果、私たちと彼らの間にはなにか「仲間意識」に似たようなものが生まれ、ある種の共感が共有される。私たちはその後も何度も小中学校でこのプログラムを上演しているが、そのたびに似たような手応えを感じてきた。なにより終わったあとの彼らの反応がうれしかった。

ものおじしない生徒の何人かは、終わってから私たちの控え室にやってきて、積極的に感想をいったり質問を浴びせたりしてくれた。また、帰るために玄関から出ようとしたとき、私たちにまとわりついて離れない生徒たちもいた。また、あとで生徒たちの感想文が送られてきた。

感想文はいい加減に手抜きして書かれているものもあったが、丁寧に、熱心に書いてあるものも少なくなかった。それらを読んで、彼らが実に本質的に私たちの表現をとらえ、共感してくれているのを感じることができた。これは本当にうれしく、宝物のような経験であった。

宝物のような経験といえば、最近またあらたにそういう経験を持つことができた。今年になってからのことだが、東松原の〈スピリット・ブラザーズ〉というレストランでのイベントに参加するようになった。この店は、昨年、一度ライブに使わせてもらったことがあった。

そのときは「メイド(冥土)ライブ」という、出演者全員(女性)がメイド服を着用して、冥土話を語るという、ちょっとふざけたイベントのために使わせてもらったのだが、それが縁でオーナーの人見さんとつながりができるようになった。彼はかねてからやりたいことがあった。

めぐまれない子どもたちを集めて、レストランでの自由な飲食とライブイベントをプレゼントしたいと考えていたのだ。そのために、何人かに声をかけ、現代朗読協会もイベントに参加することになった。親から虐待されている児童を保護している施設のためのイベントである。

このような児童養護施設は都内だけでも59、全国では560もある。多くの子どもたちがここで暮らしているのだが、いずれの施設も予算にはめぐまれておらず、子どもたちも習い事やレクリエーションが自由にできないことが多い。それをボランティアで支えている実情がある。

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2010年8月8日日曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.35

現代朗読協会が中学生のために作った朗読プログラムは「Kenji」というタイトルだ。これを作るにあたってまずかんがえたのは、中学生たちになにを伝えるか、ということだ。作品のストーリーを伝える? 宮澤賢治がどういう人なのかわかってもらう? どちらも違うと思った。

ストーリーを伝えるだけなら、きれいに読めるアナウンサーかナレーターにやってもらえばいい。そもそもそれなら本を読むのが一番だ。宮澤賢治という作者の人となりを伝えるとしても、私は宮澤賢治という人に会ったこともなければ、そもそもすでにこの世にいない人である。

たしかに作品は残っているが、そもそも彼がなにをかんがえてその作品を書いたのかなど、だれにもわかりはしない。もし「わかる」という人がいたら、とてつもなく傲慢な人だろうと思う。作者ですら自分がその作品をなぜ書いたのか、わかりはしないというのが真実なのだ。

宮澤賢治はおそらく深い潜在意識を持っており、暗闇にうごめく衝動に突きうごかされるようにして仕事をした人間なのだろう。そのことは残されている言葉をつぶさに読めばだれでもわかる。そしてただひとつ確かなことは、いま我々の手の中に賢治の言葉があるということだ。

その賢治の言葉をただ中学生たちに伝えたい。ストーリーを伝えるのではなく、言葉そのものを、しかもいまこの時代に生きている我々と彼らという生身の肉体同士の交流電源として言葉を伝え交換したい。そう考えた。そして「Kenji」を賢治の言葉によるコラージュにした。

もうひとつ、賢治コラージュを作るにあたって私なりにひとつのアイディアがあった。それは音楽だ。賢治は音楽が好きで、自身も音楽家になりたくて何度も挑戦していた。チェロやオルガンを習い、作曲にも挑戦していた。しかし適性がなかったらしく、そのたびに挫折していた。

「セロ弾きのゴーシュ」にせよ「ポラーノの広場」にせよ、音楽が主題になった小説だ。「ポラーノの広場」では、賢治自身の作曲ではないにせよ、楽譜が使われている。賢治自身の作った「星めぐりのうた」という曲もある。音楽的にはけっして優れた曲ではない。

しかし、不思議な魅力のある曲なのだ。私はこの曲を「Kenji」のなかで使おうと思った。そのために、出演者に歌手をひとり加えた。ほかは私がピアノ演奏、そして4名の朗読者というメンバーで上演するためのプログラムとなった。朗読者には当時75歳の網野隆さんがいらした。

世田谷区立東深沢中学校での初演は、9月のまだ残暑が厳しい日だった。2年生の2クラスが音楽教室に集められ、私たちはその前で「Kenji」を上演した。生徒たちとの距離が近かったせいもあったが、最初から食いいるように見てくれて、反応もよく、手応え十分だった。

中学生たちは朗読公演といっても、なんの先入観もなく見てくれていたのだと思う。どちらかというと、「朗読? うざいけど、まあ授業だし、見なきゃしょうがないよね」くらいの気持ちで音楽教室に集まってくれたのだろう。そこでなにが行なわれるのかまったく知らずに。

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2010年8月7日土曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.34

現代朗読協会が初めていただいた助成金というもので、金額こそ少なかったがありがたかった。少なくとも、いままで公演に協力してくれていたメンバーに交通費その他必要経費を支払うことができた。これまでは必要経費すら持ち出しのことが多かったのだ。もちろん私も。

これは世田谷文学館のおかげだったが、世田文(せたぶん:略称)とはなぜか数年前から縁があった。最初のきっかけはなんだったのか忘れたが、2008年2月に生活工房での「庭を編」という展示イベントのオープニングパーティーで、朗読パフォーマンスを依頼された。

造形作家の眞田岳彦さんが中心になって進められていたイベントで、世田谷区内で採れる産物を使って衣服を編み、染色し、展示するというものだった。主催の生活工房は世田谷文化財団の一員で、世田谷文学館もそこに属する組織である。

生活工房から世田谷文学館に、世田谷にちなんだ文学作品の朗読をオープニングでできないかという依頼があり、世田文から現代朗読協会に打診があったというわけだ。文学作品は、世田谷に在住していた徳富蘆花の『みみずのたはごと』を使うことになった。

そもそも世田谷文学館は徳富蘆花にちなんだ「芦花公園」にある。私はさっそく朗読パフォーマンスのシナリオ構成に取りかかり、出演者5人による朗読作品を作った。中心は名古屋の榊原忠美氏で、ほかは協会の朗読者を使った。友人の12歳と4歳の子どもも出演してもらった。

展示会場でのオープニングパーティーの朗読パフォーマンスは、なかなか好評だった。200人くらいの参会者がバラバラと立ったままつどうなか、会場全体に散らばった作品群の間を縫うように動きながら朗読する、という演出だった。現代美術展にはとても親和性がよかった。

これがきっかけとなって、世田谷文学館からまた別の依頼が来た。世田文では区内の小中学校に文学パネルを貸し出して展示したり、ブックトークや朗読を学芸員がおこなう「巡回文学展」という企画をおこなっていた。シャーロック・ホームズ、赤毛のアンなどの紹介だ。

この巡回展示に合わせた朗読公演が、中学校でできないだろうか、という打診だった。実際に展示パネルを見学に行ってみた。ちょうど宮沢賢治の展示をやっていて、写真家による賢治の作品の写真と、作品からの抜粋テキストをパネルにしたものが何枚もならべてあるものだった。

私は宮沢賢治の作品を使った朗読脚本を作ることにした。それを初演する学校は世田谷区立東深沢中学校と決まった。私は賢治のどれかの作品をストーリーに沿って構成することはやめ、10近い作品をコラージュした脚本を作った。協会員4名と歌手ひとり(伊藤さやか)の出演。

予算はほとんどないに等しいほど少なく、採算がとれるどころか、経費に足りないほどだった。が、私たちはその公演を引き受けた。世の中には採算を度外視してもやらなければならない大切な仕事があると思ったからだ。もっとも、いろいろな人からいろいろなことをいわれた。

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2010年8月6日金曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.33

20歳代の音楽と小説修行とラジオの時代、30代の商業小説とネットの時代、40代のラジオとネット事業と朗読研究の時代と経てきて、もっとも成功したのはなにか。経済的にはいろいろあるが「成功」の基準を金銭に置かないとすれば、まちがいなくひとつだけある。

それが現代朗読協会のゼミシステムだ。継続的で、非暴力で、幸福な一種のコミュニティとして機能している。これは私が意図的に作ったものでもなければ、予想していたものでもない。私の意図外で自然発生的に奇跡のように成立したシステムだ。もちろん、まだ未完成ではある。

この場が唯一、私のやってきたことで「成功した」といえることかもしれない。ただし、この場もまだまだもろく、いつ消えてなくなってしまうかわからない、という不安はある。その主な理由は、やはり経済的なことだ。現代において場の維持にはまだまだ経済の裏付けが必要だ。

私は資産家でもないし、商売上手なビジネスマンでもない。また、売れっ子作家でもない。いまのこの場を維持するために必要な資金のために、もう少しまじめに売れる小説を書いておけばよかったと思うこともあるが、たぶんそんなことをしていれば、いまここにはいないだろう。

現代朗読協会という場を守るために、ある程度の経済的裏付けが必要なことはまちがいない。そのひとつに「ゼミシステム」があるわけだが、それだけではもちろん足りない。そこで、これはあまりこれまで積極的にやってこなかったことだが、補助金を申請するという方法もある。

積極的ではなかったが、何度か挑戦したことはある。その際にわかったのは、補助金の申請というのはとても面倒臭い作業だ、ということだ。NPO法人の認可を得るために都に書類を提出したことがあるが、それに近い作業になる。申請事業の企画を作り、予算書を整える。

資料をそろえ、必要事項を申請書式にしたがってきちんと書きこみ、窓口へ持っていく。書類審査がおこなわれ、不備がないとわかれば、事業内容の具体的な説明のために出かけていって、担当者たちとの面談がある。その後、本審査などがおこなわれ、必要があればまた呼ばれる。

なので、ある程度は「作文」であり「つじつま合わせ」になってしまう。それをまた確信的に「説明」しなければならず、そこはかとないうしろめたさがつきまとう。などと感じているのは、私だけだろうか。とにかく、私はこういう申請作業がとても苦手なのだ。

で、過去何度か申請したものは通らなかった。ところが、これは私が申請したわけではないのだが、今年のはじめにおこなった小中学校への朗読公演に対して、文化庁から補助金が出ることになった。これは世田谷文学館との共同事業で、申請は世田文がやってくれたものだった。

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2010年8月5日木曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.32

しかし私は思う。朗読というものは、もっとスリリングだし、共感的だし、驚くようなことが起こる場だし、音楽コンサートを聴く人々が持つような一体感をも作れる表現方法なのだ。自由で暖かく、スリリングで、個性的だ。人がイキイキとつながりあえる表現の場でもある。

いったいだれが朗読をこんなに窮屈で固定的・限定的な入れ物にしてしまったのだろう。私はその入れ物をいったんバラバラにし、うんと風通しをよくしたいと思う。実際に現代朗読ではそれができるようになったと確信している。現在の現代朗読協会のありようを知ってもらおう。

前にも書いたように、現代朗読協会の参加メンバーの顔ぶれは、数年前から一変してしまった。利益と等価交換を求める人はいなくなり、代わりにごく普通の、でも自己実現や表現、人とのつながりに強い興味を持っている人たちがやってくるようになった。多くはゼミ生になる。

ゼミ生になるには、まず現代朗読協会の正会員になる必要がある。が、その方式に、私はコンテンポラリーアートの考え方を取りいれている。何度も書いてきたように、現代朗読協会は等価交換の場ではない。一定の金銭をいただいて、それに見合うだけの技術を与える場ではない。

ゼミ生には「現代朗読協会という学びの場を継続的に存在させるための必要な金銭その他」を提供していただきたい、というリクエストをしている。これもあくまで「リクエスト」であって、強制ではない。金銭および「その他」というのは、例えば労働力であったりする。

労働力以外にも、あらたな会員を紹介してくれたり、ライブの告知宣伝をしてくれたりと、いろいろな貢献方法がある。ゼミ生についてもっとも大事な考え方は、この学びの場を成立させ、継続的に参加するために無理のない自分なりの貢献方法を見つける、ということだ。

自分なりの継続的な貢献方法が見つかれば、それを申告してもらう。金銭であれば、毎月このくらいなら無理なく継続的に払えるという金額を申告してもらう。経済的に余裕のある人なら毎月1万円以上を継続的に払えるかもしれないし、経済的に苦しい人は数千円かもしれない。

あるいはまったくゼロ円かもしれない。それでも活動に参加するには、現代朗読協会まで来る必要があり、交通費もかかる。だから、ゼロ円でも大歓迎なのだ。朗読をやりたいという人がいて、その人が金銭的理由で我々の活動に参加できない、という事態は可能な限り排除したい。

そもそも表現行為というものは、朗読に限らず、経済活動は関係のないはずだ。歌いたければ人は歌えばいいし、書きたければ書けばいい。読み聞かせたければ読み聞かせればいい。そのことを学びたいという人がいて、経済的理由で学べないとしたら、それはとても悲しいことだ。

しかし、学びの場を維持するには、金銭も労力もある程度必要だ。それをみんなで支えてもらうという考え方を採用している。この方式を最初に説明すると、たいていの人はびっくりする。が、理解してもらえればとてもスムーズに、おだやかにものごとが進んでいく。

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2010年8月4日水曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.31

日本でもごく一時期、ネオダダと称して「ハプニング」など前衛的なパフォーマンスをおこなう芸術家が出たことがあったが、ほとんど理解も広がりもないままに消えていってしまった。そういう特殊な芸術事情のなかで、朗読は手つかずのまま原始的な形態で残ったのだ。

念のために書いておくが、私たち現代朗読協会はコンテンポラリーアートとしての朗読だけをやるために集まっているのではない。コンテンポラリーも視野に入れた広々とした視界のなかで、日本の朗読表現をもう一度ゼロから見直してみようというだけのことなのである。

そのなかには「読み聞かせ」などの活動もはいっている。この読み聞かせにしたところで、どこへ指導に行っても聞かれるのが、「どうやればいいんでしょう」という現場の途方に暮れたような声だ。なにをどうやればいいのか、表現原理がまったくないまま行なわれているのだ。

読み聞かせにしても朗読にしても、しばしば指導の依頼がある。NPOということで安心してもらえるのと、若いNPOにしては多くの活動実績があるということもあるのだろう。幼稚園、小中学校、高校、大学の講義にも呼ばれることがあるし、また教員や保護者への指導もある。

私たちの指導は、表現やコミュニケーションの原理にのっとった理論を、現場での数多くの実証実験を経てつちかわれた方法でおこなわれる。そのため、「なぜそうするのか」「どのようにするのか」がだれにもわかるようになっているし、まただれにでも応用ができる。

私たちは私たちが発見した方法を独占するつもりはまったくなく、多くの人に知ってもらってよりよいコミュニケーションや表現に役立ててほしいと願っている。そうすることで、特殊事情で特定のイメージに凝り固まった朗読の世界を、より多くの人に親しんでもらいたいのだ。

これまで書いてきたように、日本では朗読というと、ある特定の限定的なイメージが世間一般にはある。だれかに「朗読をしませんか?」と誘うとする。するとその人の頭のなかには、ステージの上にひとり座ってスポットを浴び、まじめに本を読んでいる自分の姿が浮かぶ。

ひょっとしたらそれは着物姿だったりするかもしれない。そしてオーディエンスは中高年が多く、半分くらい居眠りしている。そんなイメージだ。また、朗読の練習をするというと、滑舌だのイントネーションだのを先生から厳しく指導され、何度も読み直しをするというイメージ。

現代朗読協会のワークショップにやってきた人の多くが、そんなイメージとはまったく違った内容に驚く。とうより、驚くのは、一般の人が朗読に対してそのようなイメージを持ってしまっていることだ。いったいどこでそのようなイメージがついてしまったのだろう。

私も朗読研究会や現代朗読協会を運営するようになって、多くの朗読会、朗読ライブを見てきた。そのほとんどが実に退屈な、予定調和的な、型にはまったものだった。そのイメージで朗読はとらえられており、また世間一般にもそのイメージが刷りこまれているのだ。

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中野ピグノーズはさらなる未来を予感させた

午後7時、出かける。中野ピグノーズへ。
新宿駅のホームで偶然、シマムラと出会う。そのまま一緒に中野ピグノーズへ。中野ブロードウェイの解説などしながら。
ピグノーズにはすでに野々宮と照井が来ていた。
お客さんは数人と少なかったが、今夜の「げろきょでないと」はなかなかおもしろかった。照井数男のラップトップを使った新しい試み(まだ未熟だが)も、初参加のシマムラもがんばった。
シマムラは朗読欲が出てよかった。「猫」「Cat's Christmas」「Cat Plane」など、猫シリーズのエロかわいいパフォーマンス。
そして野々宮の実力は新規のお客さんをグイッと引きこんでくれた。今後に大きくつながるライブだったと思う。

気分よく撤収して帰宅。この時間になった。

2010年8月3日火曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.30

2007年の暮れのことだったか。西荻窪の〈遊空間がざびぃ〉というところで、現代朗ウィークということで「読まれなかった手紙」という公演シリーズを上演したことがある。そのなかで、私の書きおろした「初恋」というテキストを、私と榊原忠美のふたりでやった。

前衛的な朗読で、といっても私と榊原のふたりにとっては25年前から日常的にやってきたパフォーマンスであり、とくに珍しいということはなかったのだが、「朗読」を期待してきた方には、一種のショックがあったようだ。シリーズだったので4演目の通しチケットが出ていた。

一番最初の「初恋」を見て、ショックを受け、残り3演目をすべて払い戻しして帰られた中年女性がおられた。気の毒だったとは思うが、「初恋」はその後、2回、3回と再演を重ね、2010年の今年6月末には、名古屋のちくさ座で作曲家の坂野嘉彦氏も加えて再演された。

ドイツにおける20世紀パフォーマンス史の研究をされている東京外国語大学の西岡あかねさんも、ネットで野々宮のパフォーンスを見て、「日本でもこういうことをやっている団体がいたんだ」と驚きつつ来てくれたひとりだ。ドイツにはダダという運動があった。

表現主義ともいうが、20世紀最初の抽象表現運動だった。それはヴォイスパフォーマンスの世界にも取りいれられ、ドイツではいまだに前衛的な朗読が盛んにおこなわれているという。ドイツに限らず、欧米では朗読表現にもコンテンポラリーアートの手法が取りいれられている。

コンテンポラリーアートはドイツのダダを始め、欧米では美術や文学、さらには演劇や音楽やダンスなどのパフォーミングアートの世界に取りいれられていき、現代芸術の主要な流れとなっている。朗読も当然ながらその流れのなかで語ることができるのだが、ところがである。

日本に目を向けたとき、とても特殊な風景が展開している。日本でも美術や音楽、演劇、ダンスなどにもコンテンポラリーの手法は取りいれられ、盛んに実演されているが、朗読だけが特殊事情なのだ。朗読をやっている人でコンテンポラリーを意識している者を私は知らない。

前にも書いたが、朗読をやっている人はそのほとんどが「放送技術」の延長線上でやっていて、コンテンポラリーアートとして表現活動をしている人を日本ではほとんど見つけることができない。なぜこういう事態になっているのか、私は長い間わからなかった。

最近、こういうふうな事情ではないかと考えるようになった。日本ではアニメ文化が発達した。また、洋画の「吹き替え」という文化もある。こういうなかで、声優やナレーターといった職業が発達した。そして声の仕事をしたいと思ったら、そのような専門学校に行くことになる。

朗読会が開かれることがあるが、ほとんどがアナウンサー、声優、ナレーターといった「声の仕事」をしている人であり、それはまた放送やメディアの人々でもある。まれに役者が朗読をしていることがあるが、それでも放送の人たちの朗読イメージに引きずられていることが多い。

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2010年8月2日月曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.29

それがわかったとき、現代朗読の方法論がピタッと定義され、定着した。朗読は文章を人に伝えるためだけに行なうのではない。また、自分自身の優位をリスナーに誇示するために行なうのでもない。文章を読み上げるという行為を通して、自分自身を伝えるために行なうのだ。

その方法論を検証するために、現代朗読ゼミではさまざまなエチュードが試されたし、いまも試されている。人が書いた文章をだれかが読みあげるとき、どんなことが起こっているのか。なにが伝わっているのか。どう伝わっているのか。それを聴いている人はどうなるのか。

朗読表現に関するこのようなつぶさな検証が、現代朗読協会以外でなされているという話は、あまり聞かない。海外生活が長かった複数の人から、欧米ではコンテンポラリーな表現の朗読会がかなり頻繁に開かれているのに、日本ではそういうものはまったく見かけないといわれた。

いくつかのライブやスタジオでのパフォーマンス映像をYouTubeで公開しているが、その映像を見て興味を持ったという人は多い。いままででもっとも反響が大きかったのは、野々宮卯妙による「メニュー朗読」だ。これを見てやってきたという人が何人もいる。

これは国立の〈クレイジージャム〉というライブハウスでやったパフォーマンスの記録映像だ。クレイジージャムでは毎月、オープンマイクという方式の飛び入り演奏日を設定していて、これに「朗読でもいいか?」といって申しこんでみたのだ。他流試合的な気持ちもあった。

このときの模様は全演目がYouTubeで公開されている。窪田涼子、野々宮卯妙らが出演者だ。それぞれの演目がおもしろくやれたのだが、いつもは音楽演奏ばかりのところに現代朗読が殴りこんだのが目新しかったのだろう。観客は少なかったがとても反応はよかった。

マイクを占有できる予定の30分を終わったら、思いがけず「アンコール」が来たのだ。うれしかったが、音楽演奏ならともかく、朗読でアンコールなんて聞いたことはない。当然私たちもアンコール演目など準備していなかった。そこで私たちは苦肉の策に出た。

それが「メニュー朗読」だった。クレイジージャムの店のメニューを、最初から全部読んでしまおう、というものだ。野々宮卯妙が読み、私がそれに即興的に音楽をつけた。わざと古臭い「朗読」っぽく、感情たっぷりにやるように、大げさなベタベタの音楽をつけた。

野々宮も私の意図を即座に理解し、ベタベタの朗読を披露した。めちゃくちゃに受けた。その模様をそのままYouTubeに公開してある。それを見て、「朗読ってこんなんでもいいんだ」とか、「こんなに楽しいんだ」と感じて協会にやってくる人がけっこういたのだ。

もちろんそれを見て顔をしかめる人は多いだろう。実際、現代朗読に拒絶反応を示す人は多い。とくに伝統的な(といってもだいたいは放送技術にのっとった、という程度なのだが)朗読をまじめにコツコツとやってきたような人からは、嫌悪感を示されることが多い。

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2010年8月1日日曜日

ウェルバのミーティング、デリヘイとの営業(?)ライブ

昨日。
名古屋へ。新幹線がゲロ混み。なぜ? 指定席が「A」だったのだが、横浜から「B」と「C」にも乗りこんできて、3列シートの窓側席はどん詰まりとなる。トイレにも行けやしない。
昼前に名古屋駅着。地下鉄で今池へ。ココスレストランというファミレスに行き、ウェルバ・アクトゥスのメンバーと制作ミーティング。昼食を兼ねて。11人が参加してくれた。
今後のワークショップとミニライブのスケジュールの話を詰める。また、来週7日に豊明の文化会館小ホールでやる公開ワークショップのことなども。
なかなかワークショップ参加者が思うように増えないのと、既存メンバーもいろいろとスケジュールが重なって思うように出られない、いまの状況をどうすればいいか、という悩みも皆さんから出されたが、私はこれについては非常に明快な答えを持っている。それについては、近いうちに詳しく明らかにする。
ミニライブの企画で、来月9月は11日にやることになっている。つまり「911」なのだ。特別なプログラムを用意することになった。これから手早く準備する。

16時、解散。
みんなと別れ、私は位里・デリヘイに車で迎えに来てもらって、そのまま夜のライブの会場へ。名古屋では老舗のフランス料理店で開催される広告業界若手の人たちの集まりへ。
簡単にリハーサル。楽器はピアノのみだが、なかなか状態のいいグランドピアノがあって、電子楽器などなくても充分だ。
浴衣パーティーとのことで、私もデリヘイも浴衣に着替える。浴衣を着たままピアノを弾くのはとてもやりにくい。

18時から客が来はじめて、まずは私ひとりでピアノを弾く。こういう「BGM」的な演奏サービスは、かつてよくやっていたものだが、最近またやる機会がつづいている。「朗読とマジックのある食卓」とか。おもしろいのは、こういうシチュエーションでいくら「前衛的」「芸術的」に力を入れて弾いたとしても、だれもそれに耳をとめてくれないことだ。お客は最初から「BGM」としてとらえていて、それがどれだけアーティスティックな演奏であろうと、そのようには認識しない。それが人間だ。
逆に、シチュエーション(コンサートホールやライブハウスなど)を整えた場所で演奏すれば、それがかなり平凡な演奏であっても、聴衆からはそれなりの拍手をもらうことができる。

デリヘイとのライブは20時前から。5曲と、アンコール1曲をやる。大変受けがよく、デリヘイも私も気持ちよく演奏できた。ん? これもシチュエーションのためか?

21時半ごろ、解散。
ふたたび車でホテルに送ってもらう。
疲れた。眠い。缶ビールを一本飲んで、すぐに寝てしまった。