2010年8月22日日曜日

朗読の聴き方

朗読する方については(私を含め)いろいろな人がいろいろなことを書いているけれど、聴き方についてはほとんど書かれたものがないので、書いてみようと思う。
そもそも「朗読に聴き方なんて必要あるの?」という疑問はあると思う。まずそれについて答えておく。

音楽だと「クラシック音楽の聴き方」とか「ジャズの聴き方」といった本はたくさんある。また「演劇鑑賞法」だの「現代美術鑑賞法」といったものもある。ほとんどの表現芸術について、オーディエンスの側からどのように接すればいいのか解説したものがたくさんある。
ところが、朗読についていえば、鑑賞法について書かれたものはまったくといっていいほどない。需要がない、といわれればそれまでかもしれないが、需要というものは作られるものである。つまり、その需要を作る努力を表現者側がおこなっていない、ということであろう。
ではなぜ朗読者は、朗読観賞という需要を作る努力をしていないのか。それは自分たちのおこなっていることを「表現芸術」と認識していないからだ。芸術とまでいわなくても、芸能ですら奥の深いものには鑑賞法が提供されている。歌舞伎や落語などがその例としてあげられる。朗読は芸能程度の認識すら表現者側にないといえる。
鑑賞法が必要のないものには、たとえばサーカスとかボクシングとか(これとてある程度はあるだろうが)、オーディエンス側が純粋に受取手であり、表現側が純粋に娯楽サービスの提供者である場合にそのような傾向になる。
朗読行為は娯楽サービスや、ストーリーの提供であって、表現行為ではないという暗黙の認識が朗読者側にまだまだあるように思われる。娯楽サービスやストーリーの提供であるならば、その鑑賞法などは必要ない。鑑賞者はただ気楽にサービスを受容するだけだからだ。
いま、朗読者側は「こんなふうに聴いてほしい」というアピールを多くのオーディエンスに対しておこなっていったほうがいいのではないか、と私は考えている。でなければ、日本の朗読はいつまでたっても「堅苦しく退屈なイメージ」から抜け出せないだろう。

朗読に限らず、すべての表現は、そのジャンルに習熟した聴き手があらわれることで、広がりと深みを増していく。
音楽を例にとればわかるだろう。たとえばクラシック音楽の場合、生まれつき曲や演奏のすばらしさがわかる人はいない。繰り返しよい演奏を聴くことで耳が育っていく。
よい演奏にはどうやってめぐりあうのだろう。
自分より先に音楽のよさに目覚めた人に教えてもらうのだ。友人であったり親兄弟であったり、ときには音楽評論家であったりするかもしれない。とにかく、「これはよい演奏ですよ」という指摘を受けて耳を傾けることになる。繰り返しそのようなことをおこなっていくうちに、自分でもよい演奏かそうでない演奏かを聴き分けられるようになる。すると楽しみはさらに深まっていく。そういう体験はだれもが持っているのではないだろうか。朗読もそれとおなじことがいえると思う。
ところが、いまの日本の朗読の楽しみ方というのは、芸術観賞にはほど遠い、非常に偏った方法になっている。
偏りの第一。オーディエンスは「朗読」を楽しむのではなく「ストーリー」を楽しむために朗読会に来ている、という事実がある。
音楽会の場合、演奏されるのが「どんな曲なのか」を聴きに来る人はほとんどいない。その曲が「どのように演奏されるのか」という期待を持って聴衆は楽しみに来るのだ。ところが、朗読会の場合、朗読されるのが「どんな作品なのか」ということに関心が集まることが多い。その作品がどのように読まれるのか、朗読者はその作品をどのように読む人なのか、という関心が持たれることはほとんどない。つまり朗読という行為が「表現」ではなく、ただの「伝達」だと思われているからにほかならないだろう。その状況がいまだにつづいている。
伝達するだけなら、本そのものを読んでもらえばすむことだ。また最近はすぐれた音読ソフトが安価になってきているから、視覚に障碍を持っているような方もそれを使えばよい。音訳ボランティアというものがあるが、人の手をわずらわせずとも、ソフトウェアに任せていけばいい。
そのかわり、人は人にしかできないことをやるのだ。すなわち表現であり、コミュニケーションである。朗読がすぐれた表現行為であることを、いま、正しく人々に伝えたいと思う。そのためのオーディエンスがまだまだ育っていない以上、朗読者自身が発言していきたい。

朗読はどのように聴けばいいのだろうか。
朗読は表現である。人の行為である。また、表現者とオーディエンスの間に生まれるコミュニケーションである。これは音楽やダンスや美術や文学などの他表現芸術となんら変わりはない。表現とは、人間自身を表現することである。
聴き手は表現に接して、その表現者がなにをどのように表現しようとしているのか、全身で感じるようにしたい。上手いとか下手とか、そんなことはどうでもいい。たとえばピカソの絵に接して上手い/下手を問題にする人がいるだろうか。それより、表現者自身を感じたい。
表現者の存在を感じるということは、自分自身の存在を感じることでもある。表現者を鏡にして、自分の存在を確認することができる。また、表現を自分がどのように受け取るのか、あらたな発見がそこにある。表現に接することは、自分自身の発見の旅でもある。
自分自身を見つけるためにも、ぜひとも朗読ライブや公演に足を運んでほしい。そして、「なにが語られているのか」ではなく、「どのように語られているのか」にぜひとも注視してほしい。するとこれまでの朗読会ではまったく見えなかったことが見えてくるはずだ。
私たちも朗読を実演するだけでなく、どのように朗読がおこなわれているのか、私たちはなにを伝えようとして朗読しているのか、など、さまざまなことを努力して発信していきたいと思っている。お付き合いいただければ幸いである。