2010年9月18日土曜日

「読み聞かせ」についての考察(朗読も同じだけど)

現代朗読のゼミ生に「子どもたちに読み聞かせをしている」という人がいて、実際に絵本を持ってきてみんなに聞かせてくれた。大変楽しい絵本で(干支と早口言葉を組み合わせた絵本)、大人が聞いても楽しいものだった。その人もとても楽しそうに読んでくれた。
さて、そこから検証が始まるのが現代朗読のゼミである。
まず、子どもたちに絵本を読み聞かせるとき、なにが一番大切なのかをみんなにかんがえてもらった。
「抑揚をつける」「リズムを大切にする」「はきはきと話す」いろいろな意見が出た。どれも的を射ているように思える。
「まず読み手である自分が楽しんでいることが大事」という意見も出た。これはゼミでいつも確認している「読み手の心や身体の状態はそのまま聴き手にも伝わる」という原理を踏まえたものだろう。
さて、それだけでいいのだろうか。

ここで私はいつも意地悪な提案をする。
「子ども相手ではなく、いまここで、私たち相手にその本を朗読するとしたら、どんなふうに読む?」
彼女は少し考えてから、ふたたび読みはじめる。それは、大げさな抑揚やリズムの強調のない、彼女のふつうの大人相手の朗読である。が、彼女が楽しんでいることには変わりない。
あとで確認したのだが、彼女はその本がとても好きで、彼女自身、その本を朗読するのがとても楽しいのだという。
私はつづけた。
「なぜいま我々に読んだくれたように、子どもたちには読まないの?」
彼女はそこでハタとかんがえる。かんがえあぐねる。いろいろとかんがえをめぐらせる。
この「かんがえる」ということが表現する者にとってはもっとも大切なことなのだ。
なにかを表現しようとしたとき、けっして思考停止に陥らないこと。これが大事だ。
しばらくかんがえてから、彼女は答える。
「たぶん、子どもにもわかるように読まなければと思ったんでしょうね」
この「子どもにもわかるように読む」ということについて、我々は(誰からなのかはわからないが)ある一定のルールというかやり方を刷りこまれている。抑揚やリズムを大きく、いかにも楽しく、言葉ははっきりと明瞭に、声は明るく大きく。
子どもは誰もそんなことを頼んでいない。
そう思いこんでいることで、一種の「思考停止」に陥っているといってもいいだろう。「こういうふうに読む」という型を(無意識にせよ)持っていることで、表現はとても楽になる。なにもかんがえずにその「型」に表現を流しこめばいいのだから。
しかし、ここで原点に戻ってみたい。
一切の型をはずし、いま、ここで、自分が自分らしく読むこと。
この場合、「いまここで、私たち相手にその本を朗読してみて」と頼まれたときの彼女の朗読がそれにあたる。
それに気づいた彼女に、私はもう一度お願いしてみた。
「もう一度いまの読み方で、子どもたち相手に読んでみて」
当然のことながら彼女の読み方はガラッと変わる。
私は問う。
「その読み方ではだめなの? その読み方だと子どもたちは聞いてくれないと思う?」
そんなことはない、と彼女は答えるし、私たちもそんなことはないだろうともうわかっている。子どもたちは裸の、鋭い感性を持っている。
子どもたちには大人の私たちがなにをどうしようとしているのか、理屈ではなく感触ですべて伝わってしまっている。楽しんでいるかいないか、子どものための型にはめこんで楽をしているかいないか、子どもだと思ってレベルを落とした表現をしているかいないか。
子どもたち相手だろうが、大人相手だろうが、お年寄り相手だろうが、ひとりだろうが千人だろうが、私はたちはただ誠実に「型」を取りはらい、自分のあるがままの表現を真剣に手探りしながら読んでいきたい。