2010年9月27日月曜日

共感と感心

演劇、朗読、音楽や絵画など、なにか人の表現を観に行ったとき、心を動かされることがあります。「感動した」などといいます。
そのときの心の動き方には二種類あるように思います。私はそれを「共感」と「感心」に分けています。

自分にできないすぐれた技術や技能を見せられたとき、人は「感心」します。その心の動きを「感動」といっていえないことはないかもしれません。サーカスを観に行ったとき、空中ブランコの妙技を見て、自分にはとてもできないと感心し、演技者に拍手を送ります。
スポーツ選手に惜しみない拍手を送るのも、おなじ心の動きです。自分にはできないが、彼はおそらく大変な努力をしてあそこまで到達したのだろう、すばらしい。
囲碁や将棋や、あるいは落語、歌舞伎といった芸能に対してもそういう敬意の表し方があります。
芸術表現の分野でも、音楽、演劇、舞踊、美術などのすばらしい表現技術に対して拍手を送ります。自分ができないことをできる人に敬意を表す、あるいはその行為に対価を支払う、というのは、人間の自然な行為のように思えます。
しかしそれが高じると、金銭的評価や人気だけがその表現行為の価値基準にようになってしまうことがあります。現代社会では「技能」を追求するあまり、ほとんど「びっくり人間大賞」のようになってしまった表現ジャンルすらあります。
また「感心」させることを目的に技能を磨かれた表現は、どうしても表現者とオーディエンスの間に上下関係を作ってしまいます。つまり、表現する側は「優れている/えらい」わけで、オーディエンスはそれをお金を払ってありがたく拝見する、という関係です。

上下関係を作らないのが「共感」をめざす表現です。
表現者は、自分が相手よりすぐれたことを提示するのではなく、ただありのまま誠実に、正直に、自分の行為、思考、イメージ、そして身体的状況を「表現の場」に投入します。オーディエンスもその場に立ちます。
表現者とオーディエンスの間には上下関係はなく、そのおなじ場に立ちます。おなじ空間と時間のなかにあります。その場のなかで、表現がおこなわれます。表現は表現者とオーディエンスが共有します。
最初は表現者からオーディエンスに向かってベクトルが向かいます。オーディエンスが表現者からのベクトルを受け取ったとき、オーディエンスにはなんらかの反応が起こります。ロボットでないかぎり、かならずなにかが動きます。それは目に見えないものかもしれませんし、ましてや声にしてはっきりと返ってくるものではありません。しかし、優れた表現者はオーディエンスのその微細な変化を、受容体としての自分の身体で受け止めます。
この二者のあいだで情報の交流と共有が進んでいきます。このときどんなことが起こるのかは、多くの人がすでに経験していることでしょう。
友だちが自分のつらい体験を正直に話してくれたとき、あなたもまた涙を流したことがありませんか? 何人かでひとつの目的に向かって心を合わせてがんばったとき、言葉にはできない充実感や満足を感じたことはありませんか?
人は共感を求める動物です。

私が推奨している「現代朗読」では、オーディエンスに「感心」してもらうためにではなく、「共感の場」を作るために朗読をおこないます。自分がよりすぐれていることをけっして誇示はしないのです。それより、その場を共有していることに焦点をあてます。
ここに朗読するためのテキストがある。私はこれをどう読んだのか。いま、どう読みたいのか。私のいまの気持ちはどういうものなのか。私のいまのコンディションはどうなのか。それらを全部正直に聴き手に提示します。あらかじめたくらまれたものはありません。
自分を開き、その場に提示します。相手を感じ、受け入れ、コミュニケートします。
私は何度も、朗読を始めてほんの数ヶ月の朗読者が、聴衆を思いがけず感動させたり涙させてしまう場面を見てきました。共感にはなにも特別な技術はいらないのです。なぜならそれは、いつも私たちが普通にやっていることなんですから。その「普通にやっていること」を表現の場でできるようになることがどんなに難しいことか。
私たちがいつも普通の私たちであるための方法を、私と現代朗読協会は研究しています。