2010年12月25日土曜日

強制のことば「〜ねばならない」が生まれるわけ

私たちが「~しなければならない」というふうに考えるとき、その考えはどこから来たものだろうか。
朗読の練習をするときの具体例をあげてみる。
朗読ではしばしば、日本語発音規則のことが問題になる。たとえば共通語アクセント。
朗読では共通語アクセントを使うことが多くの朗読者の間では暗黙の了解となっていて、もしアクセントを間違えた場合、「間違えている」と指摘を受けることが多い。そこで朗読者はますます「正しいアクセントであらねばならない」と身を固くすることになる。
しかし「正しい共通語アクセントで朗読しなければならない」という法文はどこにも存在しない。つまり社会的・公共的にはなんの強制力もない「ねばならない」なのである。

ところで、その「強制」の感じはどこから来たものだろうか。
「ねばならない」という思いこみは、もちろん私たちの中にある。しかし、その思いこみはだれに、あるいはどこから植えつけられてものだろうか。
共通語アクセントの例に戻ってみる。
ここには法的根拠などはなく、だれがどうやって決めたものなのかも実ははっきりしていない。たしかに『日本語発音アクセント辞典』といったものが出版されていて、あたかもそれが絶対的な決まりごとであるかのようにされているが、根拠は薄い。たとえばこの辞典そのものが数年おきに改訂されていて、表記そのものがしゅっちゅう変わっている。
非常に柔軟な言語である日本語は時代とともにアクセントはおろか、文法や言葉の意味そのものもどんどん変化している。アクセントももちろん変化している。
つまり、絶対的な規定はなにもないのだ。

そもそも表現行為において自分自身になにかを規定することは危険なことだ。
一般的な社会生活においては、法律を遵守したり、非常識なふるまいをいさめたりすることは大切だろう。しかし、表現の場ではいかに自分がさまざまな思いこみや自分自身への強制から自由になるか、社会的に作られた自分ではなく本来の自身になれるかが重要だ。

「ねばならない」のもうひとつの問題は、それが商業的、あるいは権威主義的に利用されることがある、ということだ。
現代朗読協会では「知らずに自分がおこなってしまっている癖」や「どこかから持ちこんでしまった思いこみ」をどうやって外すかということに主眼が置かれている。
これは実は指導する側としてはやっかいな方法なのだ。
楽な指導法は「~しなければならない」を生徒に思いこませることだ。その際、権威はこちら側にあり、強制の言葉というパワーを使って生徒を支配できる。さまざまな権威づけ「ねばならない」を押しつける方法は楽である。
たいていの学校や講座は、この権威づけによって生徒から対価を徴収している。多くの学校や講座の多くが、実にたくさんの「ねばならない」ことにあふれ返っている。そこに自由な表現はあるだろうか。

私たちはつねに自分自身の内側を注意深く観察していたい。
自分のなかに思いこみや強制はないだろうか。もしあるとしたらそれはどこからやってきたものだろうか。本当にそれは必要なことなのだろうか。
「ねばならない」という言葉に注意を払いたい。