2013年4月9日火曜日

方言についての感受性

photo credit: Hammonton Photography via photopincc

最近は私たちがやっている現代朗読と、世間一般で「朗読」といったときに浮かぶイメージの従来朗読とは、「表現」という意味ではほとんどなんの関係もないのだという結論に達することができてずいぶん落ち着いたのだが、何年か前まではおなじ「朗読」という言葉を使っているためにずいぶんそちら側からのアプローチで重箱の隅をつつくようなことをいわれて、まだ確たる信念がなかった時期には随分動揺したこともあった。

従来朗読の側から受ける指摘の多くは、「放送技術」に則さない日本語の発音についてのことだった。
たとえば、アクセント(イントネーション)。
放送技術においては、アクセントは「共通語アクセント」に則るものとされていて、それはNHKや三省堂が出している『日本語アクセント辞典』に詳細に記されている。
「橋」は「は」が低くて「し」が高い。
「箸」は「は」が高くて「し」が低い。
それをまちがえると意味が変わってしまうので「だめ」というルールだ。
これは大正14年に始まった全国ラジオ放送がきっかけで作られてきた「共通語」の「放送で用いるための」ルールだ。
情報伝達のためには、意味が正確に伝わらなくてはならないので、そのための技術がいろいろと考案された。

私たち(現代朗読=朗読表現)は放送(情報伝達)をするのではなく、自分自身を伝える・表現するために朗読をおこなうので、放送技術や共通語のルールに束縛される必要はないし、またそれを取捨選択する自由がある。
つまり、放送技術を使うも使わないも、私たちの側に選択肢がある。


朗読するとき、つい方言が出てしまう人にたいして、
「きたない」
と指摘した人がいる。
私はあまり怒りっぽいほうではないと思うけれど(そうでもない?)、その話を聞いたとき瞬間的に頭に血がのぼった。
方言が汚い、というのはどういう感受性なのか。

方言を使うとき、人は自分の生まれ育った環境を「体現」して言葉を発している。
身体性そのものが、その人の生まれ育ったそのものになっているといっていい。
だれかがその人の方言で話してくれるのを聞くとき、私はその人が生まれ育った環境と、その人の生まれついてのありようを教えてもらったような気がして、とてもうれしくなる。
うれしいを通りこして、ありがたくて涙が出そうになる。
それを「きたない」と断じる人がいる。
そういう人が朗読の指導的な立場に(たくさん!)いるというのはとても残念なことだと感じる。

方言がつい出てしまって、それを「きたない」といわれた人に、私は、
「まったくそんなことはないですよ。あなたの方言はとても美しい。方言を使っているあなたのそのありようそのものが美しいのですよ」
と伝えたのだが、うまく伝えられたのかどうか自信がない。