2013年6月15日土曜日

継続することのパワー

私は表向き、ピアニストであったり小説家であったり、現代朗読協会を主宰したり音読療法協会をオーガナイズしたり、絵を描いて個展を開いたりと、かなり器用な人間でなんでもこなせるように思われているフシがある。
実際、古い友人の榊原からは「きみはなんでもできるけど金儲けだけはできないんだね」としょっちゅういわれている。
私も自分のことを「器用なやつ」「器用貧乏」と思っていたことがある。
が、それは違うのではない、と最近は思いはじめている。

ピアノは小学校3年生のときからほぼ一日も欠かさず弾きつづけている。
文章は中学生のころから日記を含め、一日たりとも書かない日はなかった。
朗読とは、25歳くらいのときにラジオ番組の制作に関わるようになって以来、ずっと関わりつづけている。
音読も朗読と並行して社会との関わりのなかで試みつづけていて、とくに東日本大震災以降は普及に力を入れつづけている。
毎日、音読についてかんがえない日はないし、自分自身も呼吸法やマインドフルネス、共感的コミュニケーションを実践していて大いに役立っている。

とにかくピアノにしても小説にしても手を動かすことが好きで、スケッチも暇を見つけてはつづけている。

こうやって見てみると、いま現在私がいろいろおこなっていることは、昔から継続的におこなってきたことがいまだに続いている結果であり、途中でやめなかったからいろいろなことに手を広げているように見えてしまうだけなのだということがわかる。
だれでもわかることだが、ピアノの練習を一日に5分でもいいから毎日する人と、一週間に30分まとめてやる人とでは、大きな差が出る。

その差が眼に見えた形になっていくのは、数週間から数ヶ月かかるが、数年たったときにはもうその差は埋めがたいほど大きなものになっているだろう。
人生という数十年の長いスパンでとらえれば、なにごとかを継続することの重要性が浮かびあがってくる。

ピアノ演奏のような技術の面が多いものでなくても、呼吸法のようなものでも毎日やる人とやらない人とでは大きな差が出てくるのはまちがいない。
私は「器用な人間」ではなくて「なにかを持続することが得意な人間」なのだと思う。
では、なにごとかを継続的にしつこくやりつづけるにはどうしたらいいか。
これについては、項をあらためて書くことにする。