2013年7月22日月曜日

自分以上の何者かになるのではなく自分を活かしきる

なにかやりたいことができて、それに取り組もうとするとき、人は自分の成長を望み、イメージする。
私もこれまで、ピアノ、小説、朗読演出など、さまざまなことに取りくんできた。
仕事のような大きなことでなくても、趣味レベルのことでもいろいろなことに手を出した。
お絵描き、パソコン、料理、武術、水泳、その他いろいろ。

なにか上手になりたいと思ったとき、人はがんばってそのことを練習する。
音楽や朗読でも、がんばっていろいろなことを練習して、自分のできないことをできるようになろうとする。
そのように自分の成長をめざすとき、方法がふたつあるように思う。

ひとつは、自分の目標を自分の外側に設定する方法。
だれか自分よりうまくやれる人を見つけ、その人を目標として、その人に近づけるようにがんばる方法。
たいていの人はこれをやっている。
あこがれが先行している場合もある。

この場合、自分以外の何者かになろうとしてしまうことで、後で問題が出てくることが多い。
自分の外側に成長の基準を作ってしまうと、そこに達したとき、またあらたな基準を作らなければならない。
そうやって次々と先生をかえたり、学校を渡り歩いてしまう人がいる。
外形的に成長しているように見えても、本人の内容は成長していなかったりする。

私が最近実感しているのは、自分の外側に基準を置かなくても、自分の内側にはまだまだ未知のポテンシャルが残されているということ。
たとえばピアノ演奏ひとつ取ってみても、超絶技巧のだれかのように指が奇人的にすばやく正確に動かなくても、私のなかにまだまだ自分でも未開拓の音があり、それは広大な風景を持っているという実感がある。
自分の内側にある未知の領域にまだほとんどアクセスすらしておらず、その風景も見えていない。
その広大な風景のなかにはいっていくにはどうすればいいか。
外形的基準を手放し、ただひたすらに自分と向かい合っていくしかないだろう。

そのための方法として、マインドフルネスや共感的コミュニケーションという強力なツールを私はすでに手にしていて、非常に大きな希望を持つことができている。
また最近では、「内実の体認」を非常に重要視する武術である韓氏意拳にも出会うことができた。
ピアノ演奏のような自分の身体を使う表現行為にとって、これもまた強力な方法のひとつだろうと思う。

だれかをめざすのではなく、自分のなかにある未知の領域にアクセスしていく。
そのことで人は死ぬまで成長しつづけることができるのではないかと思う。