2015年3月31日火曜日

現代朗読の新体制、4月からスタート!

私が心血を注いできた現代朗読協会も、この4月から許認可を受けて10年めにはいります。
じつにさまざまなことがありました。
この成果についてはすでに一冊、本を書きましたが(現代朗読考――コンテンポラリーアートとしての朗読)、現代朗読協会という表現の場の試行と成長についてもそれだけでもう一冊書けそうです。
いずれ書きたいと思ってます。

この4月から現代朗読のあたらしいコースがいくつかスタートします。
それについて、わかりやすいように簡単にまとめておきます。
参考にしていただければ幸いです。

まず、とにかくいま話題の、従来の朗読とはまったくアプローチの異なる、自分自身を表現するための/身体表現としての朗読を提唱している現代朗読を、まずは体験してみたい、あるいはその上でコースを選びたい、という方向けには、現代朗読体験講座がおすすめです。

4月の現代朗読体験講座
4月3日(金)19:00開催です。

あたらしいコースは4種類がスタートします。
いずれも10回連続コースで、それぞれ各回の所用時間は2時間半です。

オーディオブック収録製作コース(アイ文庫主催/現代朗読協会協力)
ハイクオリティのオーディオブック(朗読本)を収録・製作・配信するためのノウハウを学び、トレーニングできる全10回のコース。4月2日(木)19:00スタートです。

朗読表現基礎コース
従来の朗読とはまったく異なったアプローチで驚きを呼んでいる「現代朗読」の考え方と方法を、全10回で基礎からじっくりと学ぶためのコース。4月4日(土)10:00スタートです。

朗読ライブ出演コース
数多くのライブ/公演の実績を生かし、すぐれた表現者を育成する目的で最初からライブ出演をめざすための実践的なコース。4月4日(土)14:30スタートです。

次世代作家養成コース
テキスト(文章/文字)を使った自己表現を研究するための全10回コース。4月12日(日)18:00スタートです。

すべて世田谷の羽根木の家(最寄駅は新代田)でおこないます。
次世代作家養成コースは小説や詩、エッセイなどを書くためのコースですが、とかく文字で自分を表現する機会が増えているネット時代に対応したブログやメール、SNSなどで自分を伝えるためのノウハウも扱います。
興味のある方はまずは体験講座に参加するか、協会まで直接、気軽にお問い合わせください。

2015年3月28日土曜日

韓氏意拳の導師講習会に行ってきた

高田の馬場というか西新宿にある新宿スポーツセンターまで、韓氏意拳の導師講習会に行ってきた。
講師は韓氏意拳の日本の代表である光岡英稔先生。
参加者は20人くらいいて、広い会場もいっぱいになった。

体験参加も可能な初級クラスということで、座学からはじまって、形体訓練、平歩站椿と、韓氏意拳のもっとも基本的なところから講座がすすんだ。
しかし、講義はいつもながら本質的であり、難解でもあった。
初参加の人や、あまり参加回数が多くない人は、理解するのが大変だろうと思う。
なぜなら、私も大変だったから。
最初のころは先生がなにをいっているのか、そして実技においても実際になにをどうしていいのやら、まるで暗中模索だった。

そんな私もやがて丸二年になろうとしている。
やがて三年めにはいっていく。
難解な講義も、なにをいっているのかはだいたいわかるようになってきた。
もっとも、それを実践できるかとなると別問題である。

今日の稽古では光岡先生に手を取って指導していただく場面が2回あったのだが、いずれもよい方向を見つけたことを励ましていただいて、晴ればれとした気持ちで終えることができた。
毎日、みじかい時間でもいいからと自主稽古をすこしずつ積みかさねてきたのが、多少なりとも成長に結びついているのかもしれないと思って、さらに奮起する気分だ。

ピアニストとして、もの書きとして、朗読演出家として、またマインドフルネスや瞑想の実践者として、いまや韓氏意拳から離れて自分の身体を見ることはむずかしいくらいだ。
韓氏意拳が必須というわけではないだろうが、私たち現代人が見失っている自分の本来の実体としての身体に向きあうには、私の場合は韓氏意拳という方法がもっともしっくりきているようだ。

4月12日(日)では私の活動拠点である世田谷・羽根木の家でも韓氏意拳の初級講習会を開催するので、興味がある方は私にお知らせください。

2015年3月23日月曜日

「沈黙[朗読X音楽]瞑想」をおこなったキッド・アイラック・ギャラリーについて


明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉の3・4階ギャラリーに最近ピアノが設置され、さっそく「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演をおこなったことはこちらに書きました。

おこなう前からある程度はわかっていたことですが、じっさいに長時間、お客さんがはいっている状態でピアノを弾きこんでみて、ここが音響空間としてすぐれていることをあらためて確認できました。

ピアノは古いヤマハのアップライトですが、状態はよく、鳴りもよい。
弦を開放してどこかの一音をポーンと鳴らすと、その減衰がおどろくほど長い。
曲によってはそれが邪魔になることもあるでしょうが、私は即興演奏なので、その特徴を生かした音作りをすればよいのです。
そしてそれは「沈黙[朗読X音楽]瞑想」というコンセプトにはしっくり来るものです。
鍵盤のタッチにややばらつきはありますが、私のような即興演奏の者にとっては大きな問題ではありません。

そしてなにより、その空間。
ギャラリーは3階と4階をぶちぬいた吹き抜け構造になっていて、階段で行き来できるようになっています。
3階部分でピアノを鳴らすと、その音は3階のコンクリート打ちっ放しの壁面で反響するほか、4階へと吹きあがり、4階部分でも複雑な反響を起こします。
カテードラルのようなゆたかな残響があるので、平均律で調律されたピアノであまり音を重ねると、濁った響きになりがちです。
音を少なめに抑え、また音と音の間隔もしっかりと取りながら演奏すると、よい効果が生まれます。

今回の「沈黙[朗読X音楽]瞑想」では、無調のわざとぶつかり合う響きを作ったり、逆に音数を極端に少なくしてほとんど沈黙からゆっくりと始まるような音楽瞑想をおこなったりと、演奏者にとっては大変おもしろい試みができたんですが、オーディエンスのみなさんはどのように感じられたのでしょう。
いずれにしても、ピアニストにとっては非常に演奏の楽な、心地よい音響環境であるといえます。
楽しませていただきました。

ここでの公演は毎月おこなうことが決まっています。
来月4月は17日(金)夜に開催します。
よろしければ「沈黙[朗読X音楽]瞑想」を体験しにいらしてください。
詳細と申し込みはこちら

2015年3月22日日曜日

都立広尾病院のハートフル・コンサートでピアノを演奏してきた

2015年3月20日、午後。
都立広尾病院では隔月のペースでボランティアによる音楽のコンサート「ハートフル・コンサート」を開催していますが、それに私が初めてピアノ演奏してきました。

病院でのピアノコンサートは福井県立病院でもおこなっていて、こちらは3か月に1回のペース。
もう3年くらいやっています。
福井県立病院は60分間の演奏時間だが、広尾病院は30分の持ち時間でした。
県立病院同様、日本の季節の唱歌を中心に演奏してきました。

広尾病院へは初めて行きました。
渋谷からバスに乗って10分くらい。
あっという間に着きました。
コンサートは1階の入口をはいった受付ロビーと聞いていました。
入口をはいると、すぐに担当の鈴木さんがこちらを見つけて声をかけてくれました。

ピアノはどこだろうと思っていたら、アップライトがぽつんと置いてありました。
福井県立病院のイメージがあったので、てっきりグランドピアノだとばかり思いこんでいたんですが、違っていたので、配置についてちょっとかんがえてみたりしました。

控え室に通され、しばらく待機。
時間になって行ってみると、トランジション世田谷 茶沢会の仲間の市川さんがたまたま近くに来たので、と聴きに来てくれていました。
ほかに楽しみに待ってくれている人たちがいらして、何人かと話をさせていただきました。

定刻になり、鈴木さんが私を紹介してくれて、演奏スタート。
6曲くらい演奏したでしょうか。
最後は「ふるさと」をみなさんもいっしょに歌ってもらいました。
そして、思いがけず女性職員の方から花束をいただいて、これはうれしかったな。

また、終わってから近づいてきて声をかけてくれた方が何人かいらして、なかには涙を流している方もいて、こちらも心を動かされました。
「いやされました」「ひさしぶりに自分にもどれた気がした」などといってくれた人もいました。
自分の音楽がこのように受け入れられてもらえるのを感じるのは、本当にうれしいことです。

2015年3月21日土曜日

「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演、来場者感想

昨夜の「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演、来場者はすくなかったんですが、みなさんからとても暖かい、熱のこもった感想をたくさんいただきました。
その一部を抜粋してご紹介します。
なお、次回4月の「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演は、4月17日(金)夜の開催予定です。
詳細はこちら

◎言葉にするのがもったいないくらいの時間でした。声だけで、こんなにもはっきりとくっきりとした世界が広がるのだなと。真っ暗になってからの、音の時間は、不思議なほど心地良かったです。真っ暗な空間なんてなかなか今は居ることがないのだなと思うと、とてもぜいたくです。

◎だんだんと沈黙していく朗読。景勝地のような風景が次々に浮かんだ。なぜか懐かしい感じ。浮遊する感じがあるのだけれど、現実から離れているのではなく、むしろ「今ここ」に浸る感じ。
音楽瞑想は何度か受けたことはあったけど、今回は深さが段違いだった。音が体に入っていく。一つ一つ、体にアクセスする。音が、自分の中につくった水たまりの中へと落ちて反響、拡がっていく。途中で体を動かしたくなり、頭、首、肩、上半身全体を順々に、ゆるりと動かす。自然と回旋する。終わったはなんとも言えない爽快感。
めいっぱい動いて、発散して、スッキリした!というのではなく、無理やりはめ込んでしまっていた部品を全てバラして、もとのあるべき位置に戻したような爽快感。
まさに体のフルメンテナンス。全てがクリアになったよう。

◎暗転してからが色々とおきた。朗読がおぼろげになっていく。それが極まったとき暗転した。飽和した思考は現実感をうしなわせる。音にみちびかれるイメージはあふれるほどあるのだが、聴覚と体温は過去、現実、そして未来、自分旅行を行なわせる。もっと、もっと闇が濃くなったらどうなるのだろう。

◎最近、自分との距離がどんどん離れていっていると感じていた日が続いていたのですが、自分と自分が広くやわらかく同化できるような、そんな風になれてすごくよかった。服のこすれる音すらわずらわしく感じてしまうほど、ピアノの音が本当に心地良かった。まだまだ色々ありますが! また来ます。

◎ピアノと声のかけひき。不断に含まれる沈黙の中で、心地よく眠ってしまった。暗闇が演者と観客の境目をなくし、不意に立ち上がりたい衝動に駆られる。床の上や、部屋の角や、ピアノに寄り添って、音を聴いてみたい。

◎はじめから最後まで目をつむって聴き/聞きました。朗読とピアノの音が対等の音の景として、色々なイメージ表れては消え、もしくは尾をひいておりました。窓辺、階段、戸口、扉、風……という要素が浮かび、廻っておりました。

◎ぼうっとしたまっくらな空間の中に放り出された感じ。山々、川、海、鳥のなき声、草、葉、がぼやっと、ぐんにゃり、フワフワ、ふにゃふにゃ、空間の歪み? みたいな感じでぐるぐる回る(まとまらない)。永遠につづくような、つづいてほしい感じでした。

◎ミュージックメディテーションと言うことで、現代朗読体験講座での衝撃的な効果を期待して参加しました。野々さんの朗読も、いつも以上にミュージックメディテーションを意識した様な朗読でした。公演前に読んだパンフレット(?)に書かれていた身体に対する意識を心掛けて聞き入ってみました。中々に良い環境でピアノも朗読も素晴らしい響きでした。
何回か続けて体験することで、もっと深く身体への素直な意識が芽生えて来るのだと思います。後半、真っ暗な中で壁に貼られたパネルが窓の様に見えて来て、何やら大きな教会に居るような感じでした。

◎最初は、照明の明るさのもと卯妙さんのゆっくりとした歩みを伴った、一人の女の置かれた状況・内面を空間にマーキングするかごとく、情景描写の静かな朗読(声・言葉)が、空間を移動する。(そこから私は殆ど最後まで、眼を瞑っていた)まだ、あまりよく説明できる言葉が見つからないのですが、水城さんの音楽が始まる前から、卯妙さんの言葉・声のリズムや高低が、意味を表現しながらも、音楽的な瞑想のモチーフというか要素を提供する音の流れに聴こえるようになった。
水城さんの即興の音の塊や流れによって、気持ちやイメージを想起するというより、朗読から紡ぎだされる音(もちろん意味を示す言葉であるのだが)とが、対等に響き合って、音楽で言えば連弾あるいは2重奏の様に、演劇で言えば掛け合いのセリフの様に、空間を支配していた。
中盤からの真っ暗な暗闇の中での演奏と朗読の沈黙は、瞑想を更に深くしつつ、文脈に拘る心を解放して、イメージの浮遊となったようです。
ストーリーはあまり連続性を持たずに、むしろ音(言葉)によって紡ぎだされた、色々なモチーフ(要素)が、例えば灯台の建つ岬のイメージや、女が愛しい帰らぬ人を待ち続ける狂気や、窓辺の情景、窓枠の質感、戸口の拡がりと思えば扉の色、と言ったように、それぞれがこの空間のそこここに、女の内面をさらけ出すようにあり、また飛び回っている感じがしました。
特に、実際の階段を上るに動かない足は、ほんとに重く、しかし気が付いた時には、女の内面は、高く2階の窓辺に居る(これは、このギャラリーの舞台効果だとも思いました)・・・などなど。
あたりまえの事と言われるかもしれませんが、音に意味があるように、言葉にも音としての手触り(質感)があることを、すごく感じもしました。
明るさの中の沈黙、音の連なりと静寂の中に想起されるイメージ、暗闇の中の音の豊饒さ。
「見えないものが視え、聞こえないものが聴こえる」
「沈黙[朗読×音楽]瞑想」ライブが何処まで深化していくのか…また参加させて頂きます。

キッド・ギャラリーでの「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演

2015年3月20日(金)20時より、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉の3階と4階ギャラリースペースにて、「沈黙[朗読X音楽]瞑想」の公演をおこないました。

キッドのホールでは、地下のブックカフェ〈槐多〉の「槐多朗読」もふくめて、何年か前から「沈黙の朗読」を断続的におこなってきましたが、今回、「音楽瞑想」もプログラムに加えてひとつの公演としておこなうことになったのです。
ギャラリースペースにピアノが設置され、それを試弾させてもらったところ、古くはあるけれどピアノの状態がいいことと、ギャラリースペースが大変すばらしい音響空間であることがわかったので、さっそくこのプログラムを企画した、というわけです。

「音楽瞑想」はディープリスニングというタイトルでもう10年以上前から試みていたもので、特徴としては完全な暗闇のなかでピアノの即興演奏をおこなう、というものです。
キッドのギャラリーもほぼ完全な暗闇にできます。

開演が20時、開場が19時半だったので、19時前に行き、ホールの早川くんと工藤くんといっしょにセッティング。
椅子をならべたり、音響を確認したり、エアコンや照明の扱いを検討したり。
ギャラリーではちょうど彫刻家の脇谷徹さんの素描展をやっていて、壁面にびっしりと展示された素描作品群のなかでパフォーマンスをおこなう形になります。
入口の非常灯も暗幕でつぶしてもらって、照明を消したら、ほぼ暗転状態。
それを確認して、準備終了。

19時までは通常のギャラリー展示の時間だったので、素描展を観に来た方がいらしたりしたんですが、そのなかの女性の3人組のひとりが見覚えのある方で、声をかけてみたらやはり知っている人でした。
このあとで公演をやることを伝えたら、打ち合わせがあるので来れるかどうかわからないけれど、ということでいったん出ていかれましたが、公演がはじまってからもどってきて、後半を聴いてもらうことができました。

ほかに参加者は少なかったんですが、早川くんの知り合いの女性や、予期しない私の友人が来てくれたりして、ほぼ定刻の20時にスタート。
前半は「沈黙の朗読」のパートで、野々宮の朗読のみからスタート。
テキストは私の書いた「特殊相対性の女」の一部を使いました。
最初の部分の朗読オンリーのあと、私のピアノが参加して、あとはいつものようにセッション朗読。
沈黙の朗読の特徴として、時間がすすむにつれしだいに「沈黙」の部分が増えていきます。
最後は完全な沈黙に。
そして暗転。
エアコンのスイッチも止められ、静寂が。
といっても、ギャラリーの外からはわずかな街の音が漏れ聴こえてくるんですが。

ちょうど半分あたりで暗転になり、しばらく沈黙を味わってもらったあと、後半は「音楽瞑想」のパートへ。
真っ暗ななかで演奏者にも展開が予測できない即興演奏を深く聴き、自分の身体内にわき起こってくるイメージを、できるだけ言語思考を排除して感受します。

真っ暗なんですが、それでも人間の目は暗闇になれてくると、わずかな光でもとらえてうっすらとまわりが見えはじめます。
私が記録用にレコーダーを回していたんですが、そのLEDの光が意外な明るさを作ってしまったので、これは次回以降の課題になりました。

あと、全体の時間ももうすこし長くてもよかったかもしれません。
終わったらちょうど60分でした。

終わってからみなさんから大変好意的な感想を聴かせてもらい、「来月も絶対来ます」といってくれた人もいました。
そう、この「沈黙[朗読X音楽]瞑想」はリピートしてもらうことで、身体感受の深まりがあるだろうし、感覚体としての自分の感じもまた変化していくはずなのです。

みなさんからいただいた感想については、項をあらためて紹介します。
ちなみに、この「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演は毎月1回開催することが決まっていて、来月4月は17日(金)夜の予定です。
ご都合のつく方はぜひ参加してみてください。

2015年3月14日土曜日

いまの私の生産現場(ただのテーブルだけど)

やたら無思慮に忙しく自分を見失いつつある日々から、本当に自分が喜ぶこと、必要性があることだけを、自分の身体にきちんと聞いてみて整理していこうという計画が進行中ですが(これになにか名前をつけなきゃ)、その手始めとして、まずは寝酒をやめてみました。
つぎは自分の仕事スペースまわりの整理です。
とくに机の上。

7年くらい前に、大家さんの知り合いのお宅からもういらなくなったダイニングテーブルと椅子6脚のセットをもらってきたんですが、そのテーブルと椅子を仕事用に使っています。
かなりどっしりした、しっかりしたテーブルで、椅子もしっかりしています。
残念ながら椅子の張り布はすりきれて、ところどころ破れかけてますが、これは張りかえればいいでしょう(どこに頼めばいいのかまだわからない/自分でできるかな)。

テーブルはひとりで使うにはかなり広く、ぜいたくに使えます。
ちょっと広すぎるくらいです。
広すぎるので、テーブルの向こう側をほとんど使ってません(植物を置くくらい)。
しかし、もともと仕事机の上がごちゃごちゃしているのは好きじゃないので、ここを整理するのは私にとっては苦ではありません。

テーブルの手前のほぼ真ん中には、愛用の MacBook Pro 13インチを置いてます。
その右手にサーモスの保温水筒。
いつもこれに暖かい緑茶かほうじ茶を補給して絶やさないようにしてます。
水分は毎日けっこうとってるほうでしょう。

水筒の向こうに見えるのはSONYのスマートホン。
現代朗読協会の電話なんですが、たまにワンセグでニュースを見たりします。
まあ、もしあるとしても、テレビ画面はこのくらいの大きさがちょうどいいんじゃないかと思います。
見なくてもまったくかまいません。

さらに右手にはiPad。
楽譜を表示させたり、お絵描きしたり。

左にはフランクリンのシステム手帳と、持ち歩き用のモレスキン手帳。
スヌーピーの特別限定バージョンです。
かわいいでしょ?

手帳の向こうには、いまちょうど満開の蘭・セロジネの花があります。
これを筆頭に私はけっこう観賞用のプラントを育てているんですが、これがいま悩みどころなんですね。
観賞用の植物ははたして私にとって必要なのか。
これがあることによって生活を複雑にさせてしまっていないか。

植物を持っていると、毎日の水やりや植え替え、肥料、留守にするときの乾燥の心配など、さまざまに手間がかかります。
私の大きな楽しみのひとつでもあるんですが、羽根木の家には庭もあります。
庭をほったらかしにして雑草まみれにしておくくらいなら、室内の植物はいっそ断念して庭をめでればいいではないか、という思いがあります。
しかし、庭の手入れと鉢植えの植物とでは、なにかがちがうような気もします。
かなり迷っています。

植物はテーブルの奥側、窓の近くにもいくつかあります。
いずれももらったり、100円ショップから救出してきたものがようやく元気になりかけているところです。
寒いのでまだまだですが。

蘭の花の横にはカゴにペンやハサミ、カッターナイフなどの文具がはいっています。
花の陰になってますが、温湿度計も置いてあります。
文具カゴの手前にはBOSEのモバイルスピーカーが置いてありますが、これは普段使うことはめったにありません。
音響設備のないカフェやギャラリーのようなところでミニライブをやるときに、ミニマムのライブセットのスピーカーとして持っていきます。
もちろんここで使ってもいいんですが、音がよすぎて音楽に耳を奪われてしまい、仕事になりません。
自分の音楽の編集はモニターヘッドホンをオーディオインターフェースにつないでおこなうので、やはりBOSEは使いません。

その上から花を照らしているライトは、知人からもらったIKEAのライトスタンドです。
なかなか使いやすいです。

仕事空間はけっこうシンプルです。
これ以上シンプルにしようと思ったら植物をカットするしかありませんが、うーむやはり迷ってしまうなあ。
この植物たちは私にとって必要なもののような気もがする。
いや、書いているうちにますますそんな気がしてきた。

2015年3月13日金曜日

依存を減らしてシンプルな生活を(暇人をめざせ)

先日、自分の身体のストライキを経験して、ずっとかんがえています。
よりシンプルに、単純明快に生きよう、と。

自分ではよかれと思って、たとえば経済的な理由であったり、だれかの役に立つことだと思いこんだり、長年の不義理を背負っていたり、という理由でいろいろなことに無思慮に手を広げてしまいます。
一時はできることはなんでもやろう、と突きすすんでいましたし、またそのことによって得たものも多く、それで現在があるといえないこともないので、完全に否定するのは過去の自分を否定するようでかわいそうになるんですが、それにしてもかんがえが浅い部分もたくさんあったのは事実です。

これからは自分のおこないについて、ひとつひとつ丁寧に、まずは自分の身体にきいてみることにします。
これは本当に自分がやりたいことなのか、喜びをもってやれることなのか、自分にとって必要なことなのか。
その喜びと必然性がないまま漫然と努力を積みかさねることは、悪い結果しかまねきません。
共感的コミュニケーションの世界ではこれを「ニーズを踏みはずす」といいます(嘘。いま思いついた)。

これはもう本当に丁寧にやってみるしかありません。
たとえば、私の楽しみのひとつだった「寝酒」。
20歳前後のころ、私はプロのバーテンダーとして祇園のバーで働いていたんですが、そのときにおぼえた酒の味のなかでいまだにもっとも私の舌にしっくりくるのはウイスキーです。
高級ウイスキーはもちろんおいしいんですが、安ウイスキーでもそれなりに楽しめます。
ほとんど毎晩のように、寝る前にウイスキーをショットグラスに1杯か2杯飲むのが、私の楽しみでした。

しかし、本当に楽しみとして味わっているのか?
ただ習慣的に飲んでいるだけではないのか?

そう思って、数日前から寝酒を絶ってみました。
物理的なアルコール依存ではありませんが、心理的には多少、依存的習慣になっていたのかもしれません。
なにも飲まずに床につくと、なにか物足りなくてしかたがありません。
なかなか眠れません。
いつもなら軽い酔いに手伝ってもらって、ものの数十秒で入眠するんですが、飲まないと入眠に苦労します。

とはいいながら、音楽療法のボトムブレスという呼吸法にたすけられて、いつのまにか眠りについていました。
二日めになると、今夜も眠りにくいんじゃないかと思いながらも、やはり知らないあいだに眠ってしまっていました。
なんだ、やはり寝酒は依存的習慣にすぎなかったんだ。
ウイスキーという酒は好きなので、飲みたいときにはきっと飲むだろうと思いますけど。

寝酒をやめるといいことがあります。
よくいわれていることですが、睡眠が深くなります。
深くなった分、目覚めはすっきりします。
睡眠サイクルアプリのデータを見てみると、私の場合、入眠してから5時間くらいでいったん眠りが浅くなり、ふたたび深くなって、次は6時間半くらいで覚醒に向かっているようです。
ひょっとして5時間くらいの睡眠で起きてしまえるかもしれません。
うまくすると習慣的な寝酒をカットすることと、睡眠時間をシンプルにすることの両方を一度にやれそうです。

このようにして、自分の生活のなかで不必要にやってしまっていることをひとつずつ減らし、より大切なことに短時間で集中できる体勢に持っていくことで、時間にたっぷり余裕のある生活へと移行していけるかもしれません。

私の理想は、自分が本当に集中したい仕事を早朝のみじかい時間にすませてしまい、あとは「今日はなにしようかな」とぶらぶらすごすことです。
好きな料理をしたり編み物をしたりスケッチしたり、草花の世話をしたり散歩をしたり、海を見に行ったり、サーフィンにチャレンジしたり、だれかから展覧会やライブに誘われたらほいほいと出かけていったり。
ああ、1日も早くそういう生活をしたい(明日からしよう)。

2015年3月12日木曜日

過労でダウンして考えたこと(倒れる前に考えましょう)

3月9日に東京から北陸の実家に帰省して、なんとなく時差ぼけっぽいぼんやりした眠気とだるさがありました。
韓氏意拳をたしなんでいる身としては、その時点で気づくべきでした。
家の仕事があって、それはなんとかこなしたんですが、翌日、妙に全身が痛い。
筋肉痛になるほど働いたっけなあ、と思っていたら、夕飯がまったく喉を通らなくなっていました。
お腹がピクリとも動かないのがはっきりとわかりました。
第一、非常な腹痛に見舞われました。

早めに休んだんですが、猛烈なさむけがして高熱が出て、腹痛もあいまって一睡もできません。
嘔吐感もあって何度かトイレに駆け込んだんですが、やはりお腹が動いてくれない。
吐きたいのに吐けないというのもつらいものですね。

10日は丸一日寝込んでいて、翌11日は朝からやらなきゃならない家の仕事があったので無理やりに起きて片付け、そのまま東京へ移動。
丸二日間、水以外なにも口にしていない状態で、昨日は早めに就寝。
午後9時すぎくらいに床について、今朝は午前6時にそこそこの体調で起床。
しかし、まだまともに食事するのは危なそうです。
なにより身体がまだ思い通りに動かない感じがするので、なにかやらかしそうで慎重になってます。

私が2年間つづけている中国武術・韓氏意拳では、自身の身体の声を聞く、ということをひたすら深く集中しておこなうんですが、身体の声といってもいろいろあります。
たとえば、もっとも表面的にあらわれる「声」は感情の声です。
怒り、悲しみ、いらだち、喜び、こういったものはもっとも聞こえやすい声で、それとて現代人は無視しがちなんですが、これはだれでも聞き取れます。

韓氏意拳ではそのような表面的な声ではなく、身体の奥というかそのものが全体的から聞こえてくる「生命活動」の声を聞きます。
ただ「手を挙げる」といっても、それは頭で考えた方法や軌道や習慣で挙げるのか、身体全体の協調のあらわれとして手が挙がっていくのかを、厳密に見極めながら稽古を重ねるのです。

今回私は「生命活動の声」にはさらに奥深いものがあり、まだまだ自分はそれを聞くことができていないのだということを思い知りました。
毎日、あたふたと忙しく立ちまわりながらも、どこか空回り感があったり、不安があったり、迷いがあったりするのは、この声にきちんと耳を傾けていないからではないか、その端的なあらわれとして、身体がストライキを起こしてわかりやすく私に知らせてくれたのではないか。

自分にとって、自分の身体にとって、なにが望ましく、喜ばしいことなのか。
これからはそれをきっちりと聞き分けていきたいと思います。
ひいてはそのことで自分自身のパフォーマンスをたかめ、結果的にひとさまのお役にも立てるのではないかと思うのです。

2015年3月9日月曜日

愛機 MacBook Pro 13インチをクリーンインストール(2)

(承前)
さてさて、完全まっさらの状態にもどすクリーンインストールに取りかかりましょう(人生もそうできればいいのにね)。

私は Mac OS のあたらしいのが出ると、なにもかんがえずにとりあえず即決でバージョンアップする派なので、すでに OS-X はYosemiteになっています。
いまバージョンを見たら「10.10.2」となっていました。

まず一番上のバーを見て、常駐している(いつも常時使っている)アプリをメモっておきます。
これはOSのクリーンインストールが終わったら真っ先にインストールしなおすものです。
私の場合、Karabinerというコマンドキーを日本語モードと英語モードに切りかえるのに割り当てたり、ほかにもキー配列をいじれる常駐が手放せません。
ほかにもこまごまといくつかあります(いずれ紹介しましょう)。

それからドックを見て、いつも使っているソフトをメモっておきます。
これもあとで再インストールしなおします。
シリアルナンバーをいれなきゃならない旧式のソフトもいくつかあるので、データも確認しておきます。
私はたいていのその手のデータは、Evernoteに突っ込んであります。
なので、再インストールする際、まずEvernoteが使える状態になっていないとお手上げになります。

そして最後にTimeMachineで最新のバックアップを作っておきます。

ここまでできたら、いよいよディスクをフォーマットして、OSの再インストール作業に取りかかります。
私のMacBookは内蔵ディスクがHDDではなくSSDなので、なにかと作業はさくさくと進みます。

メインスイッチを長押しして、出てきたメニューのなかから「再起動」を選びます。
クリックして、画面が暗くなったら、すかさず commandキーとRキーを同時に押して、押しつづけます。
アップルマークが出るまで押しつづけます。
そうすると「OS-X ユーティリティ」というリカバリーモードの画面になります(写真 )。
ここで再インストールではなく、ディスクユーティリティを選びます。

ディスクを選択する画面が出ますから、内蔵ディスクを選んで「消去」します。
このときかなりドキドキしますが、コツはなにもかんがえないでただボタンを押すことです。
余計なことはいまさらかんがえてもしようがありません。
パーティションを作りたい人はそのような設定をしてください(私はしません)。

あっけないほどあっという間にすべてのデータが無に帰しますので、6か月待ったりせずおもむろにつぎの「OS-X を再インストール」に進みます。
すると、怒られます(写真)。

ちょっとあわてたりしますが、落ち着いて画面の右上のほうのバーのところにあるWiFi設定のところを開いて、WiFiを選んでパスワードを入力します。
このパスワードを忘れているとえらいことになります。
Evernoteのデータ、消しちゃったよー、なんてことにならないように、自分ちのWiFiのパスワードくらいおぼえておきましょう。
まるで身に覚えがあるような注意書きですね。

WiFiがつながると、ようやく再インストールがはじまるようです。

まずはAppleのサイトからOS本体のデータのダウンロードです。
このとき、Apple IDが必要になります。
このパスワードを忘れているとえらいことになります。
Evernoteのデータ、消しちゃったよー、なんてことにならないように、自分のApple IDのパスワードくらいおぼえておきましょう。

あとは画面の指示にしたがっていけば、再インストールは終わります。
WiFiや回線の速度にもよりますが、データのダウンロードには数十分かかります。
大きなデータなので、データ使用量制限のあるポケットWiFiを使おうなどという無謀なことは、決してやってはいけません。

OSの再インストールが終わったら、あとはアプリの再インストールですが、最近のアプリはほとんどがクラウドから落とせるので、便利といえば便利ですが、その分時間もかかります。EvernoteとかGoogleドライブとか、クラウドにどでかいデータを預けてあると、それをダウンロードするだけで1日がかりだったりしますので、注意してください。
では、幸運を祈ります。

愛機 MacBook Pro 13インチをクリーンインストール(1)

私ほどMacBookを使いこんでいる者はいないであろう(えへん)というのには理由があって、ネットに接続した作業はもちろん、テキストライティング(USキーボードなのにカナ入力)、映像編集、音声編集、音楽制作、画像編集と、作業は多岐にわたります(バカみたい)。
ネットもSNSやブログや検索だけでなく、Skypeやハングアウトなどでのリアルタイムミーティングを利用しています。
ま、ヘビーユーザーといっていいでしょう、これらをすべて一台のMacBookでこなしています。

なので、MacBookは最新最高スペックのものをさくさくと使いたい。

データのバックアップはTimeMachineを使っておこたりません。
いつマシンがぶっとんでも代替機があればすぐに復旧できるようにしてあるのですが、それもこれもこれまで35年間になめた辛酸の成果ともいえましょう。

さくさくと使うにはいつもメモリをクリーンにしておくことはもちろん、時々ディスクユーティリティを使ってアクセス権を修復したり、ディスクを検証しておきます。
それでも、しばらく使っているとなんとなく起動や終了がのろくなったり、アプリケーションの動作が不安定になることがあります。
なので、私は1年に1度くらいのペースでOSのクリーンインストールをします。

クリーンインストールにはふたとおりのやりかたがあって、ひとつは簡易版。
もうひとつは完全版。

ディスクをフォーマットするところまではおなじですが、TimeMachineからデータを復旧させるかどうかのところで選択があります。
TimeMachineからアプリケーションも含めて全部のデータを元どおりに復旧させるのが、簡易版。
すべてのアプリケーションを一から再インストールとして、必要なデータだけ復旧させるのが完全版。
後者のほうが手間も時間もかかるのはいうまでもありません。
今回おこなったのは、後者のほうです。
(つづく)

映画「イミテーション・ゲーム」のオンライン試写を観た

劇場公開をこの13日に控え、GAGAがオンライン試写をおこなったので、観てみました。
せっかくなので、羽根木の家にあるプロジェクターとスクリーンをセッティング。
映画館とちがって、こたつにはいったまま、食事しながら観れるのがいいですね(笑)。
以下、ネタバレを含みますのでご注意。
といっても、史実はすでにあるんですけどね。

さて、「イミテーション・ゲーム」は天才数学者アラン・チューリングをめぐる、史実にもとづいた映画です。
中心になっているのはナチス・ドイツの解読不可能とされた暗号「エニグマ」の解読をめぐっての物語。

暗号解読にあたってチューリングは人間よりずっと効率よくパターンを調べられる計算機を設計し、作りあげます。
人付き合いのへたなチューリングは、同僚や上司とうまくコミュニケートが取れず、必要な予算を失いそうになったり、スパイにまちがえられたり、さまざまな軋轢のなかで苦悩するんですが、ついには計算機を稼働させるところまでこぎつけます。
そのための大きな力となるのが、キーラ・ナイトレイ演じる数学に才能を発揮する女性ジョーンです。
彼女がいなければなにもかもうまくいかなかっただろうと思いますが、史実はどうなんでしょう。

ちなみに、チューリングを演じるのは「シャーロック」のベネディクト・カンパーバッチ。
同性愛者でもあったチューリングの苦悩を、そつなく演じてます。
キーラ・ナイトレイの演技が光っているんですが、こちらは「スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス」「パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち」「プライドと偏見」「アンナ・カレーニナ」など、そうそうたる作品に登場してます。

後半ではいかにも手に汗握る映画的な見せ場も作ってあって、劇場に出かけても楽しめることはまちがいありませんが、アラン・チューリングという人のことをもっと知りたくなるのは私だけじゃないでしょうね。
国家と法(当時は投獄対象の同性愛者だった)に人生を狂わされていくわけですが、彼がもっと存分に数学的才能を花開かせていたら、どんな業績を残せたんだろうと想像してしまいます。

2015年3月8日日曜日

雲南市民劇団の公演「Takashi」を観てきた

トランジション世田谷 茶沢会の立ち上げメンバーのひとりであり、いまは島根県雲南市に移住したhiloさんが関わっている雲南市民劇団の下北沢公演「Takashi」を観に行ってきました。
若手演出家コンクールの最終審査に残った作品ということで、演出家は雲南市の高校教師・亀尾佳宏さん。
出演もされていました。

会場は「劇」小劇場で、せまい会場にぎゅうぎゅう詰めの観客。
いくらなんでも詰めすぎだろうと、膝に故障を抱えて座りごこちの悪い椅子が苦痛の私はかなりむっとしながら開演を待っていたんですが、いきなり演出の亀尾さんと出演者たちが登場して、劇ではなく前挨拶みたいな感じで軽妙なトークをはじめたのには、ちょっとびっくり。
あとでかんがえれば、あれもすでに劇中だったんでしょうね。

雲南市出身の放射線研究者・永井隆博士の伝記のような劇で、最後は長崎原爆で妻を失い、みずからも放射線におかされて白血病でなくなるという内容です。
重い話をテンポよく、アマチュアの市民劇団員が熱烈に演じ、好感が持てます。
そしてなにより、終盤に発せられる原爆、戦争にたいする強烈なメッセージ、いまの日本のありようにたいする痛烈な批判。
それは直球すぎるほどの直球ですが、強烈に胸に突きささります。
いま、これほどの直球でものをいわなければ届かない時代になっているのではないか、という思いがわきました。

演劇的にはアマチュアらしさもあったし、せまい劇場では過剰すぎる発声や音響、音楽だったり、演劇という手法でなければならなかったのか、という疑問も残ったりしましたが、勇気を持って直球を投げこんだ亀尾さんに、最後は私も惜しみない拍手でした。

雲南市のみなさん、お疲れ様でした。
そしてありがとう。

伊藤まきさんの事務所開き

昨日の午後は世田谷代田の〈空間工場〉を借りて選挙事務所にする伊藤まきさんの事務所開きに行ってきました。

伊藤まきさんはトランジション世田谷 茶沢会の仲間で、ご自分でも「くるくる0円マーケット」というユニークなリサイクル運動をやられています。
今回、生活者ネットワークから世田谷の区議会議員として立候補する予定で、私も応援しています。

行ってみたら、まさに「手作り」といった感じの事務所だし、手伝っている人も集まった人も本当に草の根的な飾らない感じで、暖かい気持ちになりました。
こういったごくふつうの人々のあいだから代表者を議会に送りこむというのは、いまの時代にあってとても大切なことのような気がします。
そしてまきさんの人柄もあって、きっと運動はこれからゆっくりと確実に、穏やかに盛りあがっていくことでしょう。

国政も地方議会も、かいま見るだけで目をそむけたくなるような非難や暴力の応酬に満ちていますが、そんな場にまきさんのような女性議員たちがすこしでも共感の場を作り、住民の目線に立った行政を作っていってくれることを期待しています。

オーディオブックゼミ、草加Jugem共感カフェ

長らく現代朗読協会の活動の中心になっていた「ゼミ」という方式が、この3月いっぱいで終了します。
毎週、木曜日の夜におこなっていた「オーディオブックゼミ」も、3月いっぱいでなくなります。
そのかわり、「オーディオブック収録製作コース」という全10回のコースとして、アイ文庫主催(現代朗読協会協力)でスタートします。

この木曜日のゼミは、体験参加者もくわわって、基礎トレーニングからしっかりとやりました。
みんなが真剣にトレーニングしていると、そのまんなかにしれっとした顔でやってきて「あたしを見て」とばかり寝そべる羽根木の看板猫・ムイがかわいい。
全員、めろめろになって、トレーニングが滞ることはなはだしいのです。

昨日・金曜日の夜は、日曜日におこなわれるはずだった草加市〈Jugem〉での共感・声カフェに行きました。
日曜日は踏切事故で電車が不通になり、振替になったのです。

常連の何人かが都合で来られず、少人数でしたが、新規の方もひとりいて、落ち着いてしっかりとやれました。
初めて共感的コミュニケーションを学ぶという 女性でしたが、対人援助職についていて、自分を棚にあげて人のお役にたとうと必死に働いてきたようです。
しかし、なによりまず、自分自身に共感し、落ち着くことが、ひいてはより集中力と能力を発揮して人のお役に立てるようになるのであって、そのことを練習してもらいましたが、自分自身に共感するなんてことはやったこともかんがえたこともないとおっしゃってました。
また、クライアントや他の職員にたいして遠慮があって、自分のニーズをつい抑えてがまんしてしまうけれど、そのことについてもどのように対処したらいいのか、練習してみました。

お伝えしたことを「やってみます」と明るい顔でおっしゃっていたけれど、役に立つといいなあ。

次回、4月のJugem共感カフェは、4月10日(金)夜の開催予定です。
詳細と参加申し込みはこちら

2015年3月7日土曜日

みむぅー王子の共感王国(ランド)

佐渡教会の牧師であるみむぅーこと三村修氏が東京に来て、共感的コミュニケーションの練習会をやるというので、昼前に迎撃しました。

御茶ノ水駅で待ち合わせ、まずは近くの喫茶店へ。
古くて雰囲気のいい喫茶店でしたが、煙かった。
みむぅーによれば、夜は富坂キリスト教センターで勉強会をするということで、それまで時間はあるといいます。
ならばと、羽根木の家に来てもらって、ゆっくり話をしたり、できればネット番組を収録したりするのはいかがと、なかば強引に誘ってみました。

駅のすぐ横の、あとで聞いたら有名な店らしい〈カロリー〉という超狭い、学生食堂のノリの店で昼食。
それにしても、すごい名前ですね。

中央線、京王線、井の頭線と乗り継いで、羽根木の家へ。
掘りごたつでくつろいでもらって、学生みたいにあれこれ雑談をしました。
途中でちゃんとネット番組「共感ランドのみむぅー王子がやってきたよん」も収録。
それはこちらからご覧ください。

夕方、早めに富坂へ移動。
練習会は佐渡島出身でみむぅーのことをフェイスブックで知ったとわざわざ参加した方など初参加者も含め、あとはIIT参加者やNVCのコアメンバーらも来て、大変楽しい会となりました。
私もあらたに確認したことや発見もあり、みむぅーが来なければまず行かなかっただろう練習会でしたが、行ってよかったな。

この会は毎月一回、おなじ場所でおこなわれるということで、みむぅーの人柄もあってたぶん初心者のみなさんでも安心して参加できる場になるだろうと思います。
興味がある方は次回以降、参加されることをおすすめします。

共感・声カフェ@下北沢ステイハッピー
下北沢の旅カフェ〈Stay Happy〉にて共感・声カフェを3月16日(月)夜に開催します。だれでも参加できるオープンで気楽な雰囲気の勉強会です。参加費1,000円+1オーダー。

2015年3月5日木曜日

場が成長するということ(横浜共感カフェ)

(この写真は小袖ワークショップの吉房泰子さんが撮ってくれたものです)

毎月一回、神奈川県民センターでおこなっている横浜共感・声カフェに行ってきました。
2014年1月からつづいていて、須美子さんが主催してくれていたのだが、仕事が忙しくなって、今回はライパチくんにバトンタッチ。
ライパチくんも頼もしくサポートしてくれました。

常連のメンバーが何人かいて、新規参加者もこのところ、ライパチくんが自発的に作ったチラシをあちこちに配ってくれたりして少しずつ増えてきていました。
先月は定員いっぱいの開催でしたが、今回はついに定員オーバー。

月に一回の開催なので、初期のころはなかなか練習がすすまず、みなさんも実践に苦労している感じでした。
なにかワークをしても、まだそんなことも理解してもらってなかったのかと、がっかりすることもありました。
ところが、最近、ふと気がついてみると、お互いにきちんと相手の話を共感をもって聞けるようになっている!
だれかが話しているとき、それをさえぎるようなことはだれもしないし、自分の意見だけを主張するようなこともない。
ちゃんと相手の話を聞いて、その人がなんのニーズをもっているのかそこに注意が向くようになっているのです。

日常生活ではまだまだ使えるという実感までいたっていないかもしれませんが、確実に進展していることはたしかです。
おそらく、横浜の常連の人たちは、なにかが確実に変わっているはずなのです。

今回は新規の方や、それに近い方もいらしたので、いささか乱暴だけどわかりやすさを優先した私なりのやりかたで「ガンガン」やらせていただき(共感的コミュニケーションのワークではたぶんあまりこのような雰囲気はない)、後半はふたり一組になってのワークをしてもらぃました。
その際、新規の方のなかでちょっと深刻な問題をかかえておられる方がいたので、私はその方と共感セッションをしました。
すこしでもお役に立てたらうれしいんですが。

※次回の横浜共感・声カフェは、4月13日(月)夜、神奈川県民センターにての開催。詳細と申し込みはこちら

2015年3月3日火曜日

音楽瞑想60回連続配信(私はなぜこんなことをしているんだろう)

元旦にスタートした音楽瞑想の音声・映像配信が60回をこえ、今日は61回めを配信しました。
私の大好きな旅行エッセイストで故ブルース・チャトウィンの著書に『どうして僕はこんなところに』という本がありますが、いまは「どうして私はこんなことを」という感じでしょうか。
多くの人から「なんでそんなことしてるの?」「お金にもならないことを毎日やってバカじゃないの」「一日も欠かさずなにかをつづけるコツを教えて」など、いろいろなことをいわれます。
そのつど、思いついたことを答えていますし、それは嘘ではないんですが、自分の奥底には「なんでこんなことを」という自分でもはっきりわからない部分がたしかにあります。

人は自分のことをある程度わかったつもりでいますが、最近私が気づいたことに、自分のなかには自分でも踏みいることができないブラックボックスのような場所がある、ということがあります。
よくよく目をこらし、注意深く観察すれば、そこからときおりチラッと気配のような、きざしのようなものがひらめいて見えることがあります。
そいつが湧きあがってくるブラックボックスのなかは、自分の生命活動そのものであることがかいま見えます。

自分の生命活動そのものは自然におこなわれているものですが、そこでおこっていることを私たちはコントロールすることができません。
そこには本能や衝動、ニーズといったものがうごめいていて、たしかにそこにあるんですが、自分で制御することはできません。
それはただ「そこにある」のであって、私はかすかにその声を聞くことができるだけです。
そしてそれは、生命というものの働きがそうであるように、常にダイナミックに変化しています。

その声にさからって無理になにかをしようとしたり、無視して関係ないことを強行しようとすると、かならずよくないことが起こります。
私はそのようなことばかりして50年以上の人生を苦しくすごしてきたのだと、いまはよくわかります。

私がなにかを好んでやりたくなったり、やりつづけたいと思ったり、思いがけない表現をしてしまったとき、それが我想からはなれ身体の奥深くにあるニーズの声にしたがったものであるなら、それは私にとって「良」とするものです。
「こういう理由で私はこれをやる」といった思考からはなれない予定強行的な行動は、じつは自分のニーズから乖離していることがあります。
私がここにこうやって生きていて、いまこの瞬間も熱くたぎっている生命活動のブラックボックスから立ちのぼるきざしが聞こえているかぎり、私はきっと毎日、一見意味のない音楽配信をつづけることでしょう。

※ほぼ毎日配信の音楽瞑想はこちらから聴けます。

ライスミルクと玄米スープと自給自足カフェ

三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉でトランジション世田谷 茶沢会の仲間のアーチさんが、

 食と農・暮らしを考える実践ワークショップ
 ~トランジション世田谷 自給自足プロジェクト
          「茶沢大学(仮)」キックオフ~

というものを開催するというので、行ってきました。
ややこしいタイトルになっているけれど、ようするに前半は、玄米を使った玄米スープや米粉のライスミルクを作って楽しみ、後半はワールドカフェ形式で自由に自給自足について話し合おう、というイベントでした。

アーチさんの人がらなのか、好奇心いっぱいのいきいきした女性の方ばかりで、いきなり気後れしてしまいました。
料理がはじまってからも輪にはいれず(もともと輪にはいるのは苦手だけど)、すみっこで鍋の番をしていたんだけど、そんな私にさりげなく気をつかってくれる方が何人かいらして、徐々に居心地を取りもどすことができました。

後半の話し合いの時間ではファシリテーターをやらせていただいて、とてもいきいきとした建設的な意見を聞くことができました。
玄米を使ったライスミルクやスープはとても簡単なものでしたが、安心安全で素朴においしく、自分でもやったみたくなりました。
もっとも、もともとの玄米そのものが安心安全であることが必要ですが。

このイベントは今日と明日まで、全部で三日間おこなわれ、そこからアーチさんが構想をまとめて「自給自足大学」という定期イベントに今後つなげていきたい、ということでした。
私もなにか協力できるといいな。

トランジションのイベントとしては、3月17日(火)に羽根木の家でカフェをやります。
メンバーでなくてもトランジションタウン運動や自給自足に興味がある方はどなたも参加できます。

※トランジション茶沢カフェ@羽根木の家の詳細と申し込みはこちら

2015年3月2日月曜日

ボイスセラピーの必要性と可能性、職業的自立をめざして

昨日はボイスセラピー講座の日でした(ちょっと語り口を変えてみる)。
昨日の参加者のひとりが、この講座に来た動機として、
「自分もカウンセリングなど対人援助の仕事をしているけれど、ボイスセラピーという言葉にピンときてネット検索してみたら、水城さんのブログを見つけた。それを読んでますますピンときて、参加を申し込みました」
といっておられて、うれしかった。

昨日の講座のなかでも伝えたのだが、ボイスセラピーは非常に簡便な方法でありながら大変効果的で強力な健康法なので、子どもからお年寄りまで、こころの健康から介護予防や認知症予防まで、幅広く貢献できるポテンシャルを持っています。
社会のなかでも、学校、企業、高齢者福祉施設、地域行政など、これもまた幅広く活躍できる場の可能性があります(実際すでに活動している場所もある)。

ボイスセラピストも年齢性別を問わずスキルを身につけることができるし、とくに女性の自立した社会貢献仕事としておすすめできます。
昨日も学生や社会人が参加してくれたし、結婚して家庭を持っているような主婦の方も自分のアイデンティティややりがいのある仕事、社会と貢献的にかかわる仕事としてボイスセラピストをめざしてもらえるのではないかと思っています。

来月4月のボイスセラピー講座はやはり1日・水曜日の開催です。
平日の開催になりますが、仕事を休める方、フリーの方、契約仕事の方、学生、主婦など、お待ちしています。
詳細と申し込みはこちら

2015年3月1日日曜日

綿あめ文庫の旗揚げ公演

世田谷代田のマッピングパーティーがあまり楽しかったので、本当は15時においとまする予定だったのが、時間を忘れてしまって、気がついたら15時半をすぎていた。
あわてて電車に飛びのって、浅草橋に向かう。

浅草橋(というか両国?)の〈gallery kissa〉まで、元ゼミ生の山田みぞれが主催する〈綿あめ文庫〉の旗揚げ公演「Hattara Pokkari~ヌードルなキューピー~」を観に行く。
みぞれちゃんのほかにも、御幸菜穂子さんや、現ゼミ生の高崎梓と川崎満里菜も参加していた。
いろいろな演出的工夫がされていて、まるでおもちゃ箱のような楽しい朗読会。
現代朗読という手法を経て自由に解き放たれた朗読のひとつのスタイルの表出がここに見られて、私は大変うれしく、また楽しませてもらった。
たった一回きりの公演だなんて、もったいないな。

みぞれちゃんからこの公演の案内と招待をいただいたときには、本当にうれしかった。
そして実際に観て、げろきょを卒業していったゼミ生がげろきょの精神を受け継いで活動をつづけてくれているのを見るのは、さらにうれしかった。

世田谷代田マッピングパーティー

昨日は午前中から世田谷代田の兒玉さんち〈空間工場〉に行き、マッピングパーティーというものに参加してきた。
グローバルに展開されている自主的なボランティアの地図作りプロジェクト「Open Street Map」を利用して、自分たちの世田谷代田の地図を作ろうという集まりで、大変楽しかった。

午前中はどのような仕組みで地図が作られるのか、説明があった。
これがなかなか緻密なシステムで、グーグルマップがすでにあるからいいじゃん、と思っていたけれど、そんなことはない。
住民や訪問者が独自の情報をどんどんレイヤー構造で加えていける地図で、たとえばトランジション世田谷 茶沢会から参加した私や和食ちゃんにとっては、ニホンミツバチの蜜源情報やら果樹情報を加えていくことができる。
そしてその地図作りのための街歩きがまた楽しいのだ。

下北沢でお昼を食べたあと、午後は代田の歴史にくわしいきむらけんさんの話を聞き(これがまた過激で楽しい)、きむらさんの案内で世田谷代田駅の南側あたりを地図散歩。
知らなかった話をたくさん聞けたし、いつもとはちがった視点で街を探索できたのも楽しかった。
萩原朔太郎が住んでいた場所やそこにある高圧線の鉄塔にまつわる話や、河口慧海の終焉の地の碑を初めて見たりした。

オーガニック・ランチをいっしょにいただきながら、持続可能社会をめざすトランジションタウン活動についてゆるりと話しましょう。トランジション世田谷 茶沢会主催。