2015年8月13日木曜日

「あやまってよ」という人のニーズ

日本には「謝罪」という文化がある。
子どものころから、悪いことをしたり、相手を傷つけたりしたら、それが意図的でなくとも親からは「ちゃんとあやまりなさい」と教育される。

会社にはいると、顧客や取引先のクレームに対して「誠意をもって謝罪する」ための形を叩きこまれる。
「まことに申し訳ありませんでした」
と、腰を90度に折って、深々と謝罪する光景は、記者会見などでよく見かける。
「土下座」という、最高峰の謝罪形態もある。

客から文句をいわれると、
「とにかくあやまっとけ」
という指導を受けて、そのとおりにただひたすら、
「申し訳ありません。おっしゃるとおりでございます。まことに申し訳ありません。ごめんなさい」
と、機械的にあやまりつづける対応をする人もよく見かける。

「謝罪の文化」について、ちょっと揶揄するような視点で書いてしまったが、まじめに謝罪をしようとしている人たちもいる。
まだ具体的には明らかにできないが、「私たちは謝りたい」というサイトを真摯に立ちあげようとしているグループがある。
私も微力ながら協力している。

さて、この「あやまる」という行為について、共感的コミュニケーションの世界から見ると、どのようなニーズが見えてくるだろうか、ということをかんがえてみたい。

なにか自分が不当な行為を受ける。
その相手にたいして「あやまってよ」という。
相手があやまれば気がすむだろうと思ってそのような要求を突きつけるのだが、実際に相手が、
「ごめんなさい」
とあやまったとしても、なんとなく釈然としなかったり、すっきりしなかったりする。

共感的コミュニケーションでは、相手にあやまってもらうことによって、自分がなんのニーズを満たそうとしているのかを見る。
つまり、相手にあやまってもらうのは、自分のニーズを満たすための手段、ということになる。
ニーズが見えてくれば、「あやまってもらう」こととは別の手段のほうが、ニーズを満たすためには有効であることが見えてくるかもしれない。

たいていは相手にあやまってもらうことによって、「こちらを尊重していることを示してほしい」という気持ちがある。
つまり、こちらのニーズを相手に理解してもらいたい、という気持ちがある。
「あやまってよ」
というのは、相手がこちらのニーズを尊重する気があるかどうか確認したい気持ちから出ていることばだ。
しかし残念ながら、そのことばはえてして「お願い」よりも「強要」「命令」にちかいメッセージとして相手に伝わってしまう。

相手からの尊重が必要なのに、こちらの態度によって相手とのつながりを失い、尊重されないばかりか、形ばかりの「ごめんなさい」を受け取ってしぶしぶ満足しなければならなくなる。
相手に尊重してもらいたかったら、「あやまってよ」以外の方法でまず相手とつながる必要がある。

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