2015年11月26日木曜日

ひさしぶりの刊行準備『HiYoMeKi Vol.5』

げろきょのテキスト表現ゼミ(次世代作家養成ゼミともいう)では、毎回、お題を設定して短文を書いてきてもらうのだが、そのなかからおもしろい作品をピックアップして機関誌を出している。
『HiYoMeKi』というタイトルで、電子書籍と紙本の両方で出しているのだが、現在、Vol.4まで出ている。

しばらく間があいたが、いまVol.5の刊行準備に取りかかっている。
すべての作品に私のコメントをつける作業をしている。
そのいくつかを紹介しておきたい。
こんな感じ。

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 いつもしつこく書いていることだが、長く書くより、短く書くほうがずっとむずかしい。だれもが身に覚えのあることだと思うだろうけど、人は書きはじめるとどんどん書きたくなる。饒舌になって、自分が不要なことばを書きつらねていることにすら気づかなくなる。人に読ませるものを書く人間は、ここのところをきびしくいましめたい。
 百枚の小説を五十枚で書けなかったか。十枚のエッセイを三枚で書けなかったか。千字のテキストを三百字で書けなかったか。二十行の詩を三行で書けなかったか。佐藤ほくを見よ。
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結婚披露宴という「非日常」が接続してうんざりするほどの「日常」を、叔母の「茶寮」と叔母の存在そのものと対比することで、立体的に切りだすことに成功している。日常と非日常、うんざりする作業と静謐なたたずまい、これらがたんに対照的に配置されているだけではない構成に、テキストのほとんどが「説明」であるにもかかわらず小説として成立している。
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文体は身体である。もしその文書を読んでから書き手を見たとき、文体と身体の印象がずれていたとしたら、その書き手は文体もしくは身体のどちらかに、あるいは両方に、嘘をついているのだ。
 山口世津子の書いたものを読んでから実際の山口世津子に会ってみると、たいていの人は「ああ」というだろう。
 ちなみに、私・水城の文章を読んでから私に会った人の多くが「えっこんなおじさんだったんですか」という。
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照井数男はプロの数学研究者である。プロの、というのも変だな。数学研究者である。これでいいか。
 現在、パリ在住。パリの大学で現代幾何学の共同研究にいそしんでいる。それとこのテキストとどう関係があるのか。「ある」と書いて、その裏付けをひねりだそうと思ったが、やめた。関係があってもなくてもいいのだ。読み手はただその不思議な味わいをじっくりと味わい楽しめばいいのだ。書き手が小説家であろうが、主婦であろうが、ピアニストであろうが、女子高生であろうが、数学者であろうが、ただ前提や判断なく味わってみるということができるかどうか。そのことのいかに難解なことよのう。
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次世代作家養成ゼミ(11.29)
身体性にアプローチするという斬新な手法でテキスト(文章/文字)を使った自己表現を研究するための講座。11月29日(日)夜のテーマは「構成・プロットの立て方/そのエチュード」。単発参加も可。