2017年5月7日日曜日

子どもの日、でした

2017年5月5日、子どもの日は、午前中に講座をひとつやり(参加者ふたり)、午後に梅丘まで留守中の友人の猫の世話に行ったほかは、ずっとひとりで国立の家で静かにすごしました。
そしてフェイスブックやツイッターやメールでたくさんのメッセージをいただきました。
誕生日だったからです。

私が生まれたのは1957年ですから、ちょうど60年めでした。
割引とかいろいろ特典がもらえるようになるのかな。

60歳になるから、というわけではないんでしょうが、ここ一年は激動といってもいいかもしれません。

16年以上暮らしていた世田谷から国立へ居を移しました。

現代朗読協会の活動が終息しました(現代朗読そのものが終わったわけではありません)。

共感カフェの活動が急速に広がりました。

母が脳内出血で入院し、その後認知症がいちじるしく進行し、病院から介護施設に移ることになりました。

それにともなって、北陸の実家への帰省のタイミングが流動的になり、車での移動にスイッチしました。

明大前の〈キッド・アイラック・アート・ホール〉が2016年いっぱいで閉館となり、定期開催してきた「沈黙[朗読X音楽]瞑想」の公演が開催しにくくなりました(現在私の演奏活動の場はとても少なくなっています)。

個人的におこなっていた音楽レッスンやボイスコーチングの個人セッションを、ギフト制に切り替えました(後払い/いつでもいくらでもお互いに贈り物として交換しましょう)。

激流のなかでありながら、自分自身でもせめて梶棒を握っておこうと、方向性を決める作業をずっとつづけています。
自分につながり、自分のニーズを見極め、自分の限られた命の時間をどのようにすごしたいのか、向かい合っています。
いくつかクリアになってきていることがあります。

時間というのはすべての人に平等にあるわけではないけれど、現時点で生きてここにいる人にとっては平等にあたえられているといえます。
その一瞬一瞬の積み重ねが人生となっていくわけです。
また、一瞬一瞬の積み重ねも永遠につづくわけではなく、どこかで終わりが来ます。
いつそれが来るのかはだれにもわかりませんし、私もわかりませんが、何年かはあるかもしれないという「仮定」は立てられます。
あくまで仮定ですが。

現役80年とか、人生100年などといわれるほど、高齢化が進んでいますから、ひょっとして私も80歳くらいまでは元気で仕事ができるかもしれません。
あと20年ですね!
20年あれば相当なことができるでしょう。
しかし、ただ漫然とすごしていては、20年もあっという間にすぎさり、まとまったことがなにもできなかった、というようなこともありえます。

20年というのはちょっと長すぎて、計画を立てにくいし、可能性としては低いと思っています。
より高い可能性として、あと5年か10年くらいは元気に活動できるかもしれません。

現実的にいって、健康や体力維持をしっかり心がけたとしても、いまのペースでばりばりと集中して仕事ができるのは、5年というところでしょうか。
これが私の最終ステージです。

私の人生の最後の区切りの何年かで、私はなにをやりたいのか。
どんなふうにラストステージの日々をすごせれば、最後に笑顔でおさらばできるのか。
そんなことをかんがえている今日このごろであり、60回めの子どもの日でありました。